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既知のものを未知化して見えるもの。Takram渡邉康太郎が提唱する「コンテクストデザイン」の真髄

デザイン・イノベーション・ファーム Takramの渡邉康太郎は「コンテクストデザイン」を提唱している。それは、作り手と使い手の立場の区別が曖昧になることであり、いつのまにか消費者が表現者になること。これからの世の中に求められているクリエイティビティとは?

渡邉康太郎が提唱する「コンテクストデザイン」という考え方。同名の著作によると、それは次のような意味合いをもつという。

"──コンテクストデザインとは、それに触れた一人ひとりからそれぞれの「ものがたり」が生まれるような「ものづくり」の取り組みや現象を指す。換言するならば、読み手の主体的な関わりと多義的な解釈が表出することを、書き手が意図した創作活動だ。"

コンテクストという言葉は、ラテン語の「コン=共に」「テクセーレ=編み上げる」を語源とする。「作り手と使い手、書き手と読み手、社会と個人が一緒に、ひとつの創作を編み上げられているといい」と語る渡邉に、その意味を問うた。

※本記事は2019年12月に取材を行いました

渡邉康太郎著『コンテクストデザイン』

誤読して、主語を自分にする

──「コンテクストデザイン」は、どのような意味を持つのでしょうか?

きっと多くの人は「コンテクストデザイン」と聞いたとき、企業の文脈を使い手に伝えるとか、ブランドの文脈を正しく顧客に伝える、ということを想像すると思うんですが、実はまったく逆なんです。

大きな組織では数字の裏付けが重んじられるので、意思決定のときに量的な指標が重視されます。例えば、マスマーケティングであれば、基本的にはサンプル数が大きいほどいい。"n=1000"だからある程度信頼できる、とか。でも、本来あらゆるスタートアップや作品制作、思想の発端となるのは、一人、つまり"n=1"の動機だったはずです。1という小さい数字は不確かで、裏付けが得にくいものです。すぐに数字に現れないし、まだ評価できない、類型にはまらない。でも、この"1"も、"1000"と同じように大事です。

この二つにはどんな違いがあるのか。生活の中で触れる"n=1000"の例には、ショッピングサイトのユーザレーティングなんかがあります。星の数が5に近いお店や商品ほどよい、というもの。これはあくまで「平均化された評価」なので、n数が大きいことが意味を持ちます。一つの価値軸として意味がありますが、1000人の意見が全て「星の数」という一律のものさしに当てはめられるのには、少し無理がある。同じ4.5点評価のお店があったときに、数字の上では同一に見えてしまいます。内容や意味、背景が蔑ろになってしまう。そして、数字はあくまで平均なので、歪んだ現実に過ぎません。

他方、"n=1"はたった一人の意見です。だから一見とても弱い、すぐには価値を生まない、不確かなものに見えます。でもここには、平均値に丸め込まれていない「個別・固有の物語」があります。「確かさ」はないかもしれないけど、それはある真実を映しています。

企業の論理では、前者のマスマーケティングが勝つことが多く、後者の一人の物語は蔑ろにされがちです。この、"n=1000"と"n=1"のバランスにすごく気をつけないといけない。数字の裏付けのあるものしか採用しないと、世の中は均質化してしまいます。もちろん"n=1"だけをやっていこうっていうわけでは全然なくて、よいタイミングでどちらも使いこなせるのが大切なんです。着想はあくまで"n=1"に立脚していて、それをどのように届けるかという方法論の部分で、マーケティングといった"n=1000"の力を借りる感じでしょうか。

「コンテクストデザイン」は、企業やブランドの文脈を正しく顧客に伝えるということを想像しがちだが、「企業側の文脈と使い手側の文脈の両方が主語になっている状態をつくりたい」と渡邉は語る。

そう考えると、企業が人にメッセージを届けようとするとき、「ひとつの意味」を同じく万人に理解してもらおうとする行為に、そもそも無理がありそうです。大勢がブレずに理解できるよう努力するより、むしろ誤読してもらった方がいいんじゃないか。ここでいう「誤読」というのは、なにも「間違った」というだけの意味ではなくて、個々の解釈という意味です。

届けたものが一人ひとりのなかで独自に解釈されて、咀嚼されて腑に落ちている、自分の持ち物になっている状況です。大事なのは、主語がちゃんと自分になっているかどうか。提供する側の文脈と使い手側の文脈が両方存在している。両方が主語として成立する、バランスの取れた状態。「コンテクストデザイン」が目指すのはそういう状態です。

全員がモチベーションを発揮できている組織は強い

──「コンテクストデザイン」という考え方が生まれた背景を教えてください。

きっかけのひとつは、組織でのモチベーションについて考えたことでしょうか。組織で企画やものづくりをするときには、大抵一人の発案者がいて、複数人がそれに乗っかっていく構図になります。このときに問題になるのが、作品(企画)と作者(発案者)が過度に紐付いてしまうことです。発案者にとってその企画は「自分の作品」だから、他の人から指摘を受けると、「作品に対するコメント」も「作者に対する指摘」だと感じてしまう。そうなると、建設的な批判も受け入れづらくなります。これは作者と作品がアタッチ(結合)し過ぎているから起こる。そういう状況ではコミュニケーションにズレが生じて、他の人たちはどんどん離れていってしまう。他人事だと言って、作品からデタッチ(分離)してしまうんですね。でも本来、みんながしっかり自分ごとできなければうまくいきません。

ではどうしたらいいか。むしろ作者は作品からデタッチし、他の人たちはアタッチしていくという、関係性の逆転が求められる。そうして初めて、誰も作者じゃない、もしくは全員が作者である状況が生まれます。みんなが主語になったような主体性のある関わりができるはずなんです。

"n=1"の個性やクリエイティビティを尊重している例として、いくつかの書籍を持参してくれた。どれも一般の生活者が語る物語が収録されている。「いままで表現活動をしてこなかった人でも、こういったアンソロジーに小さな物語を残すことで、大きな表現活動の一端を担います。このような小さな創作体験がきっかけになって、人もなんらんかの表現を世に投じていけるはずです」。(上から)『ナショナル・ストーリー・プロジェクト Ⅰ』ポール オースター、『捨てられないTシャツ』都築響一、 『本当の話』ソフィ・カル、『Worn Stories』エミリー・スピヴァック。

いま、企業にとって最も重要な経営資源の一つはモチベーションだと言われています。企業に属する個々人は、単にお金を稼ぐだけじゃなくて、仕事に意味を見いだせなければいけない。自分の人生の大事な時間を投資するだけの意義があるかどうか。企業側から自社のミッション・ビジョンやパーパスを発信して、個人に伝えていくことは、もちろん大事です。でも個人の側にも、自らの働く意味を積極的に仕事に投影する姿勢が求められます。企業と個人、両方がバランスよく働き掛け合っている組織は強い。

文明がやるべきは「余地」を作っていくこと

──「コンテクストデザイン」という考え方を実践するときに、先ほど話のあった「主体性のある関わり」が重要かと思うのですが、様々な物事が便利になっている状況において、どういう姿勢でいることが求められるのでしょうか。

道具によって「便利」を追求するときって、大抵、人間の関わりをなくすことになりますよね。でも必要なのは本当にそれだけなのかな?という疑問があります。

例え話ですが、トーガという古代ローマの一枚布の服は、着る人によって着方を変えられたり、場面によって袖の部分を日除けにしたり砂よけにしたりできる。布と人間の関係性のなかにクリエイティビティが潜んでいるし、人間に知が溜まっていく構造なんですよね。

一方で、サイズさえ合えばピシッと着られる普通の「便利な」洋服は、もののほうに知が溜まっていく。後者は既にいろいろあるので、今後は前者のようなものや取り組みがもっと求められていくのではないでしょうか。または再発見されていく。ベーシックインカムの整備やAI・ビッグデータの興隆、限界費用ゼロ社会の到来で、人は働くより遊ぶ時間が長くなる。Useだけでなく、Playする余地を作っていくことが、今後文明がやらなきゃいけないことだと思います。

──「余地」は気になるキーワードですね。余地を作っていかないと、均質化している世の中で変化は生まれないと思います。

「余地」に関することだと、日本特有の文化である「見立て」も今後さらに大事になるなと思っていて。例えば、枯山水は、砂が水に見立てられているし、岩が島に見立てられています。しかもそれが説明されているのではなくて、あくまで見る側が自発的に水を想起するような「余地」があるんですよね。そこで思い浮かべる水の流れやうねりは千差万別です。ここでも、クリエイティビティが作り手と使い手の両方に宿っている......。作り手は作品という「場」をしつらえ、使い手は自らの感覚でそれを完成させる。全員が「見立て」を発揮していくことが今後もっと求められていくのではないでしょうか。

クリエイティビティというのは、仕事の場で発揮されるものというよりは、日々の生活の中でこそ発揮されるものだと思います。だから、提供者とかクリエイター側だけじゃなくて、全生活者のためのもの。作り手は、使い手のクリエイティビティを惹起することが仕事になります。想像したり創造したりする力は、元来誰もが持っている。それを発揮したくなるような仕掛けが必要です。ひとつのものであっても、使い手の数だけ、「n通り」に解釈されるようなものに価値があると思います。

「社会はものごとを分類して理解しようとすることで進んできたが、今後は積極的に"未知化"する、"分けない化"することに価値が宿るように思います。」

──作り手と使い手が曖昧になるような現象は、日常生活でも起こりますよね。

僕、「好きなもの」について人にしゃべるのがけっこう好きなんです。例えば映画だったら、自分の語りが効果的な予告編になったらいいなと思う。聞いている人の頭の中でその予告編がありありと再生されて、続きが知りたいとか、そのシーンを観てみたいと思ってもらえたらうれしい。

そう思っているとき、僕はいつのまにか映画の作り手側にまわっている。勝手に宣伝して、観て欲しいと思ってるわけですから。あるシーンを取り出して語るだけで、実はクリエイティブな"編集"や"見立て"が起こっている。独自のキュレーションが働いている。小さな規模で、読者が作者の側に回ることが起こっているのかもしれません。そういう"語り直し"を通して、物語には新しい息吹が吹き込まれていくと思います。

文脈はリレーされることで強弱が入れ替わる

──"語り直し"によって新しい息吹が吹き込まれていく、とても興味深い考え方ですね。もう少し詳しく教えてください。

詩人のオシップ・マンデリシュタームが「投壜通信」という言葉を使っています。詩はメッセージボトルのようなものだと。難破しつつある船のクルーが自らの死を悟ったとき、最期の言葉を書きつけて壜に入れ、海に投げるわけですが、そのときその壜は、自分の知っている人に宛てられているわけじゃない。未だ見ぬ誰かに、出会うことのないであろう誰かに宛てられています。世の中のあらゆる作品っていうのは、そういう側面があります。

例えば誰かが本を書いたら、その価値を見出してくれるのは大抵、身近な家族ではなく、遠くにいる知らない人だったりします。ある種の「誤配」ですね。メッセージボトルのように、知らない読み手に届けていくことの積み重ねは、「文脈のリレー」であると言えます。リレーされて再解釈され、誰かの口に再びその話題が乗せられる。そのたびに、作者と読者が入れ替わっていきます。繰り返しこそが、物語を生かし、意味を吹き込んでいく。

──そうした"文脈"についての考えが生まれたのはいつ頃からですか?

常々考えてきたことで、明確な「いつ」というタイミングはありませんが、数年前、森岡書店 銀座店の立ち上げに携わっていたとき、思いを新たにしました。

──森岡書店は、1冊の本だけを売る少し変わった本屋。渡邉さんはブランディングディレクションとアートディレクションで携わられていましたね。

森岡書店は2015年に立ち上がりました。出版業界のニュースというと出版部数が下がっているとか、本屋が潰れているとか、暗いものばかりでした。唯一の勝者として見える存在がAmazonです。Amazonの勝利の秘訣は、物理的なスペースを持たず、無限の在庫を持っているところですよね。森岡書店はそのどちらも逆をいっていて、実店舗という物理スペースを持ち、本は1タイトルしか在庫がない。マスマーケティング的な考え方に従うと、いかにも「やっちゃいけない」プロジェクトです。

Takram がブランディングおよびにアートディレクションを担当した「森岡書店 銀座店」。「一冊の本からインスパイアされる展覧会を行う書店」として2015年にオープン。東京・銀座の賑やかな中心街から少し離れた静かな場所に店舗を構えている。 Photo: Miyuki Kaneko

もし「社会」という仮想的な"書き手"がいるとすれば、出版ビジネスについて「今の時代、多くの本屋はつぶれるもの」「場所を持ったらつらい」「在庫が無限にあるECが強い」と書いているかもしれない。これは僕が『コンテクストデザイン』で"強い文脈"と呼んでいるものです。でも森岡さんという社会のいち読み手は、それを"誤読"して、「そんなことないはずだ」と。たったひとりの"n=1"の取り組みとして、1冊だけの本屋を始める。社会による"強い文脈"を誤読した森岡さんの"弱い文脈"が花開いたわけです。強い文脈とは、書き手の側が込める意図で、弱い文脈とは、読み手による解釈のこと。

──強い文脈と、弱い文脈。

おもしろいのは、その文脈の強弱はリレーされ、入れ替わっていくことです。森岡さんがついに書店を開いて人が来るようになると、森岡さんは「書店」という自分の作品を書き上げた作者になっています。森岡さんの側が今度は"強い文脈"を所有しているんです。そして、訪れる人による解釈や感想が"弱い文脈"になる。

「一冊、一室。森岡書店」のステートメントに込められているのは、「弱い文脈の強さ」を最大限に発揮するメッセージだ。無限の在庫を持つAmazonの時代にこそ、一冊だけの書店が必要だ。デジタルリーディングの時代にこそ、物理的な場所が必要だ。こうした社会の誤読から森岡書店がはじまっている。 Illustration: Maki Ota (Takram)

さらに、森岡書店に訪れたお客さんは、その本があたかも自分に宛てられた本かのように思ってしまう。本屋さんには本が複数あるものですが、一冊しかないと、どうしてもその本に目がいく。目がいくと思考が始まり、自分との繋がりを見出してしまう。「いまの僕のために置かれたような本だな」という誤読です。もしかすると、これで人生変わっちゃうかもっていう勘違いさえ起こるかもしれない(笑)。そうして本に影響された彼がなにかアクションを起こしたら、彼こそが次の"強い文脈"の所有者になります。文脈は、誤読によって少しずつその強弱が入れ替わっていくんです。

ちょっとした態度や習慣がクリエイティブを生む

──文脈における"強い"と"弱い"は、良し悪しとはまた別のものでしょうか。

強弱は直接良し悪しを意味しません。「一冊だけの書店」というコンセプトは、大手の書店でもできたかもしれません。でも実際は森岡さんという個人がひとりで始めた。誰かの弱い文脈から始まったからこそ、遠くまで届くものになったのではと思います。実際に、いまは海外からも多くのお客さんが訪れてくれています。それから、世の中が全部一冊の本屋になればいいとも、誰も思っていない。つまり、弱い文脈は強さを持つことがあるし、強い文脈も弱さを持つことがあるんだと思います。

弱いものに強さを見出すとか、強いものの弱さを見つめることって、さっきの"見立て"につながると思います。千利休が漁師が使っていた魚カゴを花入れにしたように、今までとは違う用途に見立ててみる。いわば"価値の転倒"ですよね。「こういうこともできるんじゃないか」という、未知の回路をつないだとも言えます。

──すでに知っているものに対して、視点を変えて捉え直すということですね。

当たり前じゃないものをゼロから作るよりも、すでに当たり前としてあるものごとを再発見することのほうが、実はハードルが高い。森岡書店は「一冊だけの本屋」という奇抜なアイデアに価値があるようにも思えますが、実は「そもそも本屋には複数冊の本が置いてあるものだ」という常識に気づくほうが難しい。当たり前なことって、なかなか言語化できないものです。

身の回りの出来事は、毎日劇的に変化したりはしません。そんななか、日常に新たな視点を持ち込むことは、いかに可能なのか。例えば、ある朝雪が降って、自宅から駅までの景色ががらりと変わることってありますよね。その景色の変化に気付くのは容易いことです。むしろ雪が降らずとも、景色の違いを想像できるか、思い描けるか。これこそが、本当のクリエイティビティだと思います。

どうやったらアイデアが出せるようになるの?どうやったらクリエイティブになれるの?っていう質問をする人がいます。でもたぶん、クリエイティビティっていうのは才能じゃなくて、生活の態度とか習慣だと思うんですよ。既知のものを未知化してなにかを見出そうっていう態度が少しでもあれば、人はいくらでもクリエイティブになれるはずです。

自著『コンテクストデザイン』について、「本当はいろいろなビジネス的なノウハウのかたちでまとめることもできたかもしれません」と前置きしつつ、「でもむしろ、ぱっと見てわかるものよりも、読んだ人が途中で迷子になってくれるほうがおもしろいんじゃないかなと思ったんです」と語る。

渡邉康太郎『CONTEXT DESIGN』通常版
https://aoyamabc.stores.jp/items/5e8bf78c2a9a4261d0c99e75

※同書は、一般流通をさせず、トークイベントを行った書店のみで販売を行っています