ダイアローグ

計算論的思考、そして均質化を乗り越えるために──ダイアローグ:久保田晃弘×脇田玲

「ダイアローグ」の第1回のゲストは、久保田晃弘(多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース教授、アートアカイヴセンター所長)と脇田玲(慶應義塾大学 SFC 環境情報学部 学部長 教授)。「均質化していく世界を越境していくために」をテーマにした"対話"の記録。

世界の均質化が進み、同時に分断が起こる時代。それを乗り越えていくために、どのような知恵が求められるのだろうか。アートとサイエンスの領域を行き来しながら、表現や教育の現場で挑戦を続ける久保田晃弘と脇田玲。複眼的に物事を見つめるふたりの対話から見えてきたヒントは、「わからないもの」との共存だった。

蔓延する計算論的思考

ふたりが研究者と活動を始めた頃から現在にいたるまでに、世界はどのように変わってきたのか、まずはその変化をどのように感じているのかをうかがった。

久保田晃弘(以下、久保田):僕は1992年から東京大学で工学における設計の研究を始め、その傍らで音楽に関わる活動も続けてきました。やがて、コンピューターの進歩によって工学と芸術がより密接になると考えるようになりました。その頃ちょうど、多摩美術大学から新しい美術教育を始めたいと声がかかり、1998年に立ち上げから携わった情報デザイン学科に移りました。

翌年には、東京芸大でも領域を超えた美術教育を標榜する先端芸術表現科が設立されるなど、90年代は美大教育の現場が大きく動いた時代でした。振り返ってみると、既存の教育システムからの脱却を掲げて1990年に慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス(以下、SFC)が設立されたことが、とても大きかったと思います。

脇田玲(以下、脇田):僕がSFCの学生として過ごした90年代は、ネットワーキングによって空間や時間が短縮すると期待されていた時代でした。そこから30年経ったいま何が起きているかというと、インターネットが世界をつないだことでローカリズムやナショナリズムが刺激され、争いが生まれる状況になっています。これは、メディア論で知られるマーシャル・マクルーハンが60年代に「グローバル・ヴィレッジ」という言葉で表していた世界で、個人を基盤としたフェイズから部族を基盤とした分断の時代に突入した感があります。

久保田:90年代には、これからの大学も文理融合が進むと、多くの人が考えていたはずですが、実際にはそうならなかった。その理由のひとつは、ある種のシステム化や、計算論的思考が浸透したことだと思います。端的に言うと、自分の学力に応じて最適化された目標に向かって、効率よく一直線に進むことが推奨されたことで、逆に領域の横断が起こりにくくなり、極端な話、理系を目指す人は詩や小説なんか読まなくても良い、ということになっていきました。

脇田:SFCが日本で最初に導入したAO入試というのは、突出した人間力や特異性で合否を決めるようなものなので、本来対策を講じるようなものではないのですが、年々AO入試のためにパターン化、最適化された受験生が増えていると感じます。最近は、信用スコアが話題になっていますが、これは人の生き方を数値化し、ランク付けする考え方ですよね。こういうものが入試にも導入されるようになると、試験の前までに何をしたかによって合否が決まることになる。生きること自体が採点されることを意識しなくてはならない人生とは一体なんだろうと(笑)。

久保田:本当にそう思います。AIやビッグデータなどに漠然とした恐怖を感じる人もいますが、本当に怖いのはこれらを活用することで、計算論的、定量的思考を持ってしまう人が増えることです。データはこれからの産業の原動力になるとも言われますが、計算論的思考の影響で、人と人との関係にデータを活用していくことは、非常に傲慢なことだと思います。

脇田:最適化が果たして本当に人生とって良いことなのか、もっと考えるべきだと思います。いまはSNSのフォロワー数が多いインフルエンサーを見本にしている人もいますが、将来はスコアラーという存在が現れ、「あの人はスコアが高いから真似をしよう」と人々が考えるようになりかねない。それこそ何のために生きているのかという話になってしまいますよね。

脇田玲 
1974年東京生まれ。科学と現代美術を横断するアーティストとして、高度な数値計算に基づくシミュレーションを駆使し、映像、インスタレーション、ライブ活動を展開している。これまでに Ars Electronica Center, Mutek, WRO Art Center, 清春芸術村, 日本科学未来館などで作品を展示。2016年からは小室哲哉とのコラボレーションを開始し Ars Electronica Festival や RedBull Music Festival で作品を発表。慶應義塾大学 SFC 環境情報学部 学部長 教授。

世界の均質化を乗り越えるために

「世界の均質化」は見えないうちに進んでいる。それに抗っていく姿勢が必要だとしたら、どんな姿勢で立ち向かっていくべきなのか。

久保田:均質化というのは、ある意味楽な状態なんです。なぜなら、均質化した世界では皆がマジョリティとなり、言わば言葉を交わさなくてもわかり合えるような、「和を以て貴しとなす」世界が実現するからです。しかし、移民やマイノリティ問題が当たり前のものとなった現代は、むしろ「異を以て貴しとなす」という考え方が必要です。自分がアウェーとなる場所に身を置くことで、異なる分野の人たちと一緒に、何ができるかを考えられますし、教育の場では、積極的にそうした場をつくることが必要です。

脇田:僕にとって久保田さんは偉大な先輩ですが、我々に共通しているのはサイエンスとアートが個人の中に共存し、これらを越境しているところだと思っています。ただ、そうするべきだと思ってやってきたというよりは、そうしたかった、そうであっても良いんじゃないか、という思いがあったからなんですね。こうするべきだ、こうでないといけないという西洋的な思考のフレームも均質化を招いた要因だと思っていて、こうであってもいいんじゃないかという、ある種の優しさが大切ではないかと感じています。

久保田:最近は一億総活躍社会なんてことが言われていますが、一億のうち"20%"活躍社会くらいが良いと思っています。その20%は常に入れ替わっていて、残りの80%の人はその間にじっくり力を蓄えている。研究や創作の世界では、30年ひとつのことを続ければ、きっと一度は浮かばれる時がくるといわれていますが、今現在は社会に理解されていなくても、こつこつと続けていれば、何かが起こるはずだと信じられる。そういう人たちを寛容してくれる、優しい社会であってほしいですよね。

脇田:福沢諭吉が、「一身にして二生を経るが如く」という言葉を残していますが、まさに久保田さんはキャリアの前半を物理の世界に費やし、その後メディアアートに捧げるという2つの人生を生きているように感じます。こうした生き方もあるということを認識していくことが、世界の均質化を防ぐことにつながるのではないでしょうか。

久保田:数値化が重視された社会は、「これからはこうすべきだ」「こんなことをしたら先がなくなる」というように、未来を決める物言いが強くなります。ノストラダムスの大予言や、『2001年宇宙の旅』のように、未来を描いたものは、ほとんどが外れています。未来予測なんて当たらないのだから、聞き流せばいいんです。それをあたかも賢者のご信託のように受け止め、一喜一憂するようなことだけはやめた方がいい。未来を予測すると吹聴している人は、基本的にペテン師です。先ほども話に出たマクルーハンは、「最近自分が気づいていないことは何か?(What haven't you noticed lately?)」と言いましたが、未来よりも、いま目の前にあるもの、起こっているのに見えていないものについて考えることの方がよっぽど重要なんです。

脇田:意志の力に気づくことも大切だと思っています。ヘヴィメタルの様式を作り出したブラック・サバスのギタリストのトニー・アイオミは、若い頃に右手の中指と薬指の先端を事故で切り落としてしまったんです。それでもどうしてもギターを弾きたくて、樹脂製のパーツを自作して、弦も変えたのですが、それでまだ指が痛いから音を下げてチューニングした。このような特異性がヘヴィでダークなメタルの様式を作り出したんです。もしAIが人の人生を決めるような社会だったら、確実にギターをやめろと言われたはずですが、ある種の欠損から生まれる意志の力によってとてつもなくユニークなものが生まれ、そこから新しい様式やマーケットが生まれることもあるんです。

日本の大学をハックする

表現者でありつつ、大学教育の現場に長く身を置くふたり。いま教育者として何を伝えようとしているのか。

久保田:いま日本の教育というのは、どんな学校に入っても同じようなカリキュラムのもとで学び、決められた数の単位を取って卒業し、社会に出ていくというシステムになろうとしています。それは言わばコンビニやチェーン店のようなもので、僕は大学が目指すべきは、ここでしか食べられない饅頭、ここでしか飲めない珈琲があるような名店街だと思うんです。その中で脇田珈琲、久保田珈琲どちらを飲むのかという選択肢が自由にあっていいと思うのですが、逆にランキングやスコアなど定量的な指数によって選択させようとしているのが現状だと思います。その動きに飲み込まれて、自分を変えられないようにしなければいけない。

脇田:小学校から成績がつけられ、時間割に沿って授業を受けることが良しとされ、大人になったら年収やブランド力が高い企業に入ることが良い人生だという考え方がありますよね。こうした価値観を形成する一端を担ったのは間違いなく学校であり、ここを根本的に見直さなければ何も変わらないと思っています。

5年前に病気になって以来、自分の人生に納得して死ねるかということを考えるようになったのですが、現在の日本の教育には個人の幸福という視点が抜け落ちているように感じます。例えば、世の中を上手く生きていくには秘訣があり、それは著名な予備校教師や知識人など一部の人だけが知っていて、それを学ばなければ負け組になるという発想は、個人の幸福を差し置いたスコア優先の考え方だと思いますし、大学がそうした発想を誘発する一因になっていることには忸怩たる思いがあります。

久保田:色んな道があるということを自ら探す能力を培うには、どうしたら良いのでしょうか?決められたカリキュラムや時間割にただ従うのではなく、こういうことも可能なんじゃないか?他の方法はないのか?ということを考えていく、ある種のハッキング・スピリットのようなものの大切さを伝えるにはどうしたらいいのでしょうか?何かが得られた時に、その使い方を自分なりに考えていくマインドが非常に大切で、知識よりも知恵が大事だと言われるのは、そういう意味だと思います。

脇田:久保田さんは『メディア・アート原論』(フィルムアート社)という本でも、新しいメディア技術が現れた時に、技術者が想定していなかった使い方を発掘していく「ハック」の精神について言及されていますが、いま学校にもそうしたマインドが求められていると感じています。例えば、124単位を満たせば大学での学びを修めたことになるという国が定めたルールについても、一体何の根拠があるのかと疑ってみてもいいと思うんです。

いま僕がSFCの執行部と一緒に考えているのは、学習履歴をブロックチェーンで記録し、それを持って自分はこういうことを学んできたという経験を示しながら就活ができるようにならないかということなんです。学習履歴と単位のレート変換が可能な仕組みを作ります。

久保田:それは面白いですね。カリキュラムにしても何にしても最適解はないのだから、学生に合わせてどんどん変えていくべきです。持っている資質がそれぞれ異なり、変化し続ける眼の前の学生たちは言わばフローとしての存在であり、彼・彼女たちを大学が用意したフレームの中に入れてしまうと、ダイナミズムはたちまち失われてしまう。常に変化する学生と向き合うためには、常に教員の側が自分たち自身を磨き、流動的な状態にしておく必要があって、それは僕らにとって楽しい恐怖でもあるんです。

久保田晃弘 
1960年生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース教授、アートアカイヴセンター所長。東京大学大学院工学系研究科船舶工学専攻博士課程修了。工学博士。数値流体力学、人工物工学(設計科学)に関する研究を経て、1998年から現職。世界初の芸術衛星と深宇宙彫刻の打ち上げに成功した衛星芸術プロジェクト「ARTSAT.JP」をはじめ、バイオメディア・アート、芸術の数学的描写、ライブコーディングによるライブパフォーマンスなど、さまざまな領域を横断・結合するハイブリッドな創作の世界を開拓中。

わからないものを受け入れる

大学が「公共」の場所であるとするなら、そこに戻れるあるいは参加できる仕組みやきっかけが必要なのではないだろうか。

久保田:まさしくそれが、多摩美でスタートする社会人向けのプログラム「TCL-多摩美術大学クリエイティブリーダーシッププログラム」立ち上げの、僕にとっての動機になっています。2年間かけて学位を取る大学院ではハードルが高いし、いまは大学以外の場所で学べることも多いから、まずは何らかのきっかけをつくる仕組みが必要だ、と考えれば、TCLが3ヶ月間のプログラムであることは重要です。新しい情報や知識を得ることが目的ではありません、むしろすでに身の回りにあるものをいかに再解釈し、変容できるかが大切で、そこで求められるのは、やはりハックの精神だと思います。

脇田:決まっているからそれをする、ではなく、なぜそれをするのか、から考えていくことが大切で、そうした思考を実践しているのがそれこそアーティストなのです。ただ、最近はアート思考などと言って、アートにも役に立つことが求められるご時世です。作品というのは、つくり手の強烈な思想や批評精神が現れたもので、つまりアートは生き方だと言えるのですが、それを便利なものとして消費しようとする社会のマインドセットは果たしてどうなんだろうと、少し悶々としています(笑)。

久保田:役に立つと言っても、明日役に立つことと、50年後に役立つこととは大きく違います。だからこそ、今の価値観や先入観だけで判断してほしくはないですよね。最近強く感じるのは、「わかりやすさ」は時として悪になるということ。陰謀論や風評も、物事を単純化してわかりやすくすることで広がっていきます。わかりやすくすることによって失われるものもたくさんあるし、世界を単純に理解することはそもそも不可能です。だからこそ、たとえいまはわからなくとも我慢して耐えるための知力、頭の筋力が必要だと感じています。

脇田:最近お医者さんと話をしていて気付かされたことなのですが、美術の授業では色相を環状に配置した「色相環」について学びますが、人間というのは可視光線の波長の違いによって色を識別しているので、色が円周上に循環することはありえないのです。色相環という考え方には矛盾があるし、人間には見えていない不可視領域というのも非常に大きいんです。人間はそれらをないものとして自分たちを納得させている。わかりやすい世界を作り出そうとしている。

久保田:人間には理解できない言語を、AIソフトウェア同士が話しているような状況がすでに生まれているように、わからないものと共存することについて考え、議論していくことが必須の時代になりました。そこで大切だと思うのは、答えを出すという強迫観念にとらわれず、時には保留をしたり、ある種の曖昧さを自分の中で保ち続けることです。すべてを白黒ハッキリさせて生きていても面白くないですし、この世界には、正しさよりも大切なものもある。

脇田:人間が認識できない領域について考えさせてくれるという意味でも、AIは面白い存在だと思うんです。人間には解釈不能なことがあること、普遍性とは実は動的に変化していくものであって、客観的だと思っていた正しさが必ずしもそうではないことを理解することが、先に話した優しさにもつながっていくのではないでしょうか。

久保田:正しさに向けて最適化しようとすること以外にも、たくさんのアプローチがあります。たとえ、今の時点で無駄に見えることでも、本人からみれば、それを行うことが人生の幸せに繋がるかもしれないし、客観的に無駄なこと、役に立たないものがあったら、逆に教えて欲しい(笑)。

脇田:ミッション・ドリヴンであることを要求されがちな時代ですが、もっと「キュリオシティ・ドリヴン」な社会になるといいですよね。これを解決するためにどうすればいいかという考え方にとらわれすぎず、もしかすると30~40年後に何かの役に立つかもしれない、あるいはその過程で副産物が生まれるかもしれないということにも目を向けていくことが大切なのだと思っています。