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人の価値観をゆさぶるアートを──第58回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館キュレーター、服部浩之

全体の規模が大きいからこそ、小さなプロジェクトを行う「すきま」ができる。キュレーター服部浩之の原点には、資本主義的なものとの距離感があった。

ヴェネチア・ビエンナーレは、世界最古の国際美術展だ。国ごとにパビリオンがつくられることから「現代アートのオリンピック」と呼ばれることもある。

今年は2年に一度の開催年に当たる。5月11日に開幕したヴェネチア・ビエンナーレで日本館のキュレーターを務めるのが服部浩之である。インディペンデント・キュレーターとして活動する彼は、特定の美術館には所属せず、さまざまな場所で展覧会をつくったり、アートプロジェクトを行ったりしている。

ビジネスの世界では効率や生産性が重んじられるが、服部が手がけてきたアートプロジェクトを見ると、逆の考え方に支えられているように見える。必ずしも集客を目的としない。わかりやすくもない。効果が表れるのは10年後20年後かもしれない。「都市の暮らしにはそういうものが必要だと思った」と言う彼に、オルタナティブなアートのあり方について聞いた。

名古屋市港区にあったまちの社交場「UCO」で。「UCO」は、2016年から開催されている音楽と現代美術のフェスティバル「アッセンブリッジ・ナゴヤ」のプロジェクトの一環として、閉店したすし店を社交場として生まれ変わらせるべくリノベーションされた。手がけたのはアーティストユニット「L PACK(エルパック)」。服部は「アッセンブリッジ・ナゴヤ」のディレクターを務める。

資本主義的なものとの距離のとり方

──キュレーターとはどんな仕事でしょうか。

「展覧会をつくる仕事です」というのが一番わかりやすいし、実際そういう依頼が多いんですが、それだけではありません。僕自身は、枠組みや構造を組み立て、「人と人の関係」や「人と場所の関係」を設計することで、新たな創造を触発するプロジェクトをつくる、という感覚を持っています。そのアウトプットのかたちのひとつとして展覧会がある、と言えばよいでしょうか。

「設計」という感覚は、僕がもともと建築を学んでいたことが大きいと思います。大学院のときに1年間、スペインのバルセロナへ留学したんですが、そのときの経験がアートの世界へ行くきっかけになっています。

バルセロナでは旧市街の一角に住んでいました。治安のよくないエリアもありましたが、その分いろんな人が住んでいて、町としては魅力的です。ところが、そんな昔ながらの街区を歩いていくと突然、モダンな装いの現代建築が現れます。1995年にオープンしたバルセロナ現代美術館です。新しくて美しい、たくさんの人が訪れる、いい美術館なんですが、この界隈でのこの建築のあり方に違和感も感じました。街区を切り崩してつくられたであろう、周囲の風景に対して異質な存在感を放つモニュメンタルな建物を見ると、「ここに住んでいた人たちはどこに行ったんだろう」と思いました。

いま思えば、それは再開発的なものへの違和感だったと思います。大規模開発によって、混沌としていた街区は整然としたクリーンなエリアになり、土地の価格が上昇する。そういう場所は、もともとは低所得者が多いエリアなわけですが、再開発により高級化し、そこに住めなくなる人も出てきます。複雑な気持ちになりました。

一方で、町の懐の深さを感じることもありました。スペインは中庭式の建築が多いんですね。美術館の裏手の街区は、ファサードは昔ながらの石造りの外観なんですが、中庭の方へ入って行くと突然モダンなガラス張りの建築が出現します。その中では、展覧会もやっていれば、演劇公演やライブなども行われている。お茶を飲んだり本を読んだりする場所もある。美術館でも劇場でもないけど、両方の機能が混ざっているような感じ。「この場所ってなんだろう」と思いました。

のちに「アートセンター」と呼ばれる場所だと知るのですが、当時は知らなくて、何か新しいことが起こっている感じがして、ワクワクしました。外見上は古い町並みなんだけど、その奥では新しい出来事が起こっている。その共存に惹かれ、「都市の暮らしにはこういう場所が必要だ」と思いました。そういう場所に関わることができたらいいなと思ったのが、いまの仕事につながるきっかけの一つです。

また、バルセロナの人々の資本主義的なものへの疑問と距離のおき方に、はっとさせられました。私たちは否応なく資本主義の仕組みのなかで生きているわけですが、バルセロナでの生活を通じて、それまで自分がいかに消費中心の価値観で生きてきたかということに気づいたんです。目先の便利さではなく、生活を自分で築くことを重視する。単純に昼休みをしっかりとって人と一緒にご飯を食べるとか、日曜日はお店が閉まるということを受け入れ、ゆっくりと過ごすとか。

あくまで当時感じたことで、現在は状況が変わっているとは思いますが、とにかく日本の大都市とは異なった感覚で暮らしを形成する人たちに、大いに刺激をうけました。同時に、日本にも多様な地域があることに気づき、東京以外の土地に暮らしてみたいと感じるようになりました。そんななかで、大学院修了後にたまたま山口県の秋吉台国際芸術村というアートセンターの公募があったので、応募したのです。

「UCO」はアーティストや地域の人、来場者などが交わる場として、さまざまな展示やイベントが行われた。しかし建物のオーナーの意向で取り壊しが決定し、2018年10月に惜しまれつつ営業を終えた。

──それはどんな仕事だったんですか。

秋吉台国際芸術村は、アーティスト・イン・レジデンス(滞在型創作活動)を主要事業のひとつとしており、国内外のアーティストが創作活動のために頻繁にやってくる場所でした。滞在するアーティストたちの制作サポートやマネジメントが主な業務です。当時は、なにか文化的なことに関わるなかで未知の土地で暮らしてみたいという動機で応募し、働きはじめました。でも、アートに関わるきっかけがレジデンスの仕事でよかったと、いまは思っています。なぜかというと、アーティストが作品を生み出すプロセスそのものに関わることができたからです。

──いわゆる美術館だと作品を扱うことはできるけれど、そもそも作家は故人だったりする。でも、アーティスト・イン・レジデンス事業なら、いま生きて、まさに制作をしているアーティストと協働することができるわけですね。

そのうち、「この人はこれからどういう活動をつくっていくんだろう」ということに自分の関心が向いていることに気づき、いまの活動につながっていきます。

そのころ、山口市の温泉街に、山口情報芸術センター[YCAM]で働く友人と一軒家をシェアして住んでいたんですね。その家は、来訪者が非常に多く、あるとき滞在していた友人が表札のかわりに「Maemachi Art Center」という看板を勝手につくって名付け、やがてMACと略して呼ばれるようになりました。もともと、普通の家よりは少しだけ開かれた半公共空間で、飲み会の拠点みたいな場所でした。ただ、アートセンターと名付けられたことによって、あそびの延長でそれらしい活動やプロジェクトをやりはじめたのです。

職場である公立の施設では容易には実現できないような、仕事とは少し異なるプロジェクトを生活の延長のなかで実施していました。誰かが泊まりにくると、集まって話を聞く。それがアーティスト・トークに発展していきました。自分たちの判断と責任でできる範囲で、あそび感覚で、展覧会的なことや、近所の子どものためのワークショップもやりました。その一つに、下道基行さんと一緒にやったプロジェクトがありました。

──下道さんはヴェネチア・ビエンナーレで協働している作家ですね。下道さんとはどんなことをされたんですか。

彼は、いまも残る砲台や掩体壕(えんたいごう)などの戦争遺構を写真やテキストなどで記録する《戦争のかたち》という作品を制作し、2005年には同名の写真集を出版しています。戦争遺構は、現在は日常風景のなかに埋没し、人がその存在に気付かないものが多いんです。下道さんは、そういう場所に人を連れて行き、なんらかのかたちで再利用するプロジェクト「Re-Fort PROJECT」も、展開していました。そこで、第5弾となる「Re-Fort PROJECT Vol.5」をMaemachi Art Center(MAC)がホストとなって、山口県と福岡県にまたがるエリアで実現しました。

本州と九州を隔てる関門海峡は幅1キロぐらいですが、下関市と北九州市の両岸に砲台跡があるんです。明治のころから、海を渡る船を監視するために見晴らしのよい場所にたくさんの砲台がつくられたんですね。その砲台跡を使って何かできないかということで、「Re-Fort PROJECT 5─太陽が隠れるとき、僕らの花火が打ちあがる」というプロジェクトを行いました。

2009年7月の皆既日食の日、太陽が月に隠れて薄暗くなったときに、北九州市の和布刈(めかり)公園の砲台跡から花火を打ち上げて、下関側の火の山公園ほか複数の場所からみんなで鑑賞し、撮影する。このときはヘリコプターをチャーターし、地上だけでなくヘリからも撮影しました。

同じときに同じものを、たくさんの異なった場所で多数の人が経験する。火の山公園は、いまは誰でも行けますが、かつては下関要塞と呼ばれて立ち入りが困難な場所でした。花火の大きな破裂音は、もしかしたら大砲の音に聞こえるかもしれない。そういう想像力をプロジェクトを介して喚起したいと考えました。そして、参加者が撮影した映像を素材にMACで展覧会を実施しました。

「Re-Fort PROJECT 5─太陽が隠れるとき、僕らの花火が打ちあがる」を行った海峡。下関・火の山公園より。撮影:下道基行

美術作家の下道基行さん。

──それは体験してみたかったです。実現までにハードルはなかったんですか?

両公園とも市が管理しており、いくつかのハードルはありました。花火を打ち上げた和布刈公園は利用申請などが必要で、北九州市の担当局の方には丁寧に説明をしました。担当の方が僕らの趣旨を理解してくれて、実施に向けた方法をいろいろ一緒に考えてくれて、ほとんど問題なく実現できました。やろうと決めてから半年ぐらい。普段の仕事では入念な計画を立てて、多数の関係者の了承を得てはじめて企画が実現できるので、もっと時間がかかってしまいます。ですが、自律的な活動においては、自分たちの責任と判断でスピーディーに物事をすすめることができます。

公共施設の「窮屈さ」や「遅さ」に苛立ちを感じていた当時の僕には、こういう自主的な活動は重要でした。仕事を介して得た知識や技術をうまく転用しつつも、自主的に何かを起こすことは、アートという創造の現場に関わる自律した個人であるためにも、大切だと感じていました。

──その延長線上にいまがある?

そうですね。たぶん、どうやってアクションを起こすかということに興味があるんです。暮らしている場にあるおもしろさ、そこにある創造性みたいなものをかたちにしていきたいです。

──ヴェネチア・ビエンナーレのプランでは、下道さんに加えて、作曲家の安野太郎さん、人類学者の石倉敏明さん、建築家の能作文徳さん、計4人が作家として名を連ねています。異分野のチームにしたのはなぜですか。

そもそも(日本館展示を主催する国際交流基金から)「指名コンペに参加しませんか」というメールがきたときは、戸惑いがあったんです。「日本館」という場で、僕のような立場の人間が展覧会を企画するとはどういうことか、考えました。

美術を専門的に学んだわけでもなく、国内の主要美術館などで務めた経験もない。オーソリティ(権威)でもオーソドックス(正統)でもないし、オーセンティック(真正)という言葉も合わない。むしろオルタナティブ(別の可能性)のほうがしっくりくるような、美術の中心とは少しずれた人間が、どういう立場で何を投じるか。ひとりのアーティストを世界に向けて売り出す、みたいなのも違うなと思い。また、コンペなので、いわゆる正統的な企画は別の方から投げられるだろうとも思い、これまで自分が実践してきた新たな「何か」を生み出す実験的なプロジェクトをこの機会でも実現したいと思いました。

そこで、下道さんに声をかけ、協働によるプロジェクトをやりたいということを相談し、結果的にこのような多様な表現者とチームを組むことになりました。

下道さんがここ数年、津波によって海底から陸に打ち上げられた巨岩《津波石》を調査し撮影を続けていると聞き、それを起点にしたプロジェクトを立ち上げました。多様な共存の可能性というテーマを導きだすうえで、コンセプトメイキングの段階から人類学者の石倉さんに入ってもらい、《津波石》という自然の生み出した存在に拮抗するよう機械による音楽の作曲を試みる安野さん、そして日本館という特殊な建築に応答し、映像や音楽などを関係付ける存在として建築家の能作さんに入ってもらいました。

前述の「UCO」の活動の軌跡を再構築したアーカイブ展。「UCO」は、かつてのすし店の名「潮寿司(うしおずし)」にちなむ。年代ごとにつくられた木枠は、その場所がまだ海の底だった1254年から始まり、最後の木枠はいまから約60年後の2082年。その他の木枠には潮寿司の古い看板や調度品、往時の写真などを展示して、時代時代の賑わいと、港まちの移り変わりを伝えた。

60万人中、40人に向けたプログラム

──先ほど、美術の世界ではオルタナティブだとおっしゃいましたが、メジャーな芸術祭にも関わっていますよね。前回(2016年)のあいちトリエンナーレにはキュレーターの一人として参加されました。

それまでで一番規模の大きな仕事でしたし、新しいことに取り組みたいと思っていた時期だったので、次に進むきっかけとしては大きかったです。

──あいちトリエンナーレの来場者数は60万人。国内でも最大級の芸術祭です。この規模の芸術祭に関わられていかがでしたか。

そもそもマスに向けて発信するというのはそんなに得意なほうではないので、顔の見えない圧倒的多数の観客に向けて展覧会をつくるのは、難しかったですね。ただ、巨大な芸術祭であるからこそ、そのなかには「40人とか少数者に向けたプログラム」があってもいいんじゃないかとも思っていました。

芸術祭にはたくさんの人がさまざまなかたちで関わります。そのなかにはボランティアで解説員をやるなど、主体的により深く関わりたいと考えている人も少なくありません。また、もやもやした気持ちがあって何かしたいけど何をすればよいのかわからない、というような人もわりと集まってきたりします。そういうリピーターとなる人を主要な観客に想定したプログラムもつくりたいと考え、アジアのアートスペースのような場を作家や地域の人々と協力してつくり、レクチャーシリーズを企画したり、アートプロジェクトを実施したりもしていました。

もちろん圧倒的多数の観客は、一回だけの訪問の限られた時間でなるべくたくさんの作品を鑑賞したいと思うでしょうし、それが基本でよいと思います。ただ、少し主体的に深く関わりたいと思った人や、なにかを探している人が、その人なりの距離感で参加できるプログラムも、街中で開催される芸術祭には必要だと思いました。大規模な芸術祭だからこそ、そういった小さなプロジェクトを行う「すきま」ができると思うし、そこにはオルタナティブな価値が生まれると思います。

──これまでBNL Artsでは、アートフェアを紹介したり、コレクターやギャラリストのインタビューを届けてきました。「アートを買う」ことを通じて、ビジネスとアートの接点が見つかるのではないかと考えたからです。一方で、服部さんはマーケットではなく、あくまでもパブリックな領域でアートと関わっていますね。

そうですね、確かにマーケットと直接接点をもつような仕事はあまりなかったですね。マーケットに興味がないというより、公共の場に興味を持っているからかもしれません。

身近な一例を挙げると、ここ(注:名古屋市港区にあったカフェをベースとしたまちの社交場UCOのこと。2018年10月に閉鎖。2019年6月にNUCOとして近隣に再オープン)を中心になって立ち上げたL PACK(注:小田桐奨と中嶋哲矢によるユニット)も、各地でいろんなプロジェクトを行ったり展覧会にも参加していますが、いわゆる作品然としたものをつくってはいなくて、人が想像する「アーティスト」とは少し異なる動き方をしていると思います。ただ、独自の公共的な場を生み出しています。圧倒的に表現者であるけれど、その総体は捉えにくく、一言で定義できないあり方です。

開催中の「あいちトリエンナーレ2019」では、芸術大学連携プロジェクト「U27 プロフェッショナル育成プログラム 夏のアカデミー2019「2052年宇宙の旅」」のディレクターを、アーティストの山城大督、建築家と辻琢磨とともに務める。

この建物も、20年以上誰も使っていなかった、不動産としてはほとんど価値がないもので、わざわざそれを借りてリノベーションしてまで活動を展開するのは、経済的合理性から判断すると、矛盾した行為かもしれません。でも、経済的価値基準に則って取り壊して駐車場が増えていくだけでは、街の総体としては豊かさとは逆の、貧しい風景へと退化していくことにつながるのではないでしょうか。

──たしかにそうですね。いっそ更地にして駐車場にしたほうが効率はいい。

そうですね。でも、そういう考え方で町が埋め尽くされたら、息苦しいと思いませんか。豊かさの指標は、もっと多様であっていいはずです。実際、現在も金銭的豊かさを求める価値観は根強いですが、それとは異なったことに価値の軸をおく人も増えているという実感はあります。どこでどのように暮らすか、意識的に選びとる人が多くなっているのかなと。そういう状況下で、アートは「異なった選択肢がある」ということを提示できる重要な役割を担っていると思います。