BNL Quotes

日本に野球の礎を築いた、ミズノ創業者、水野利八の名言

スポーツウェア、野球用具、ゴルフクラブ、カッターシャツ、ボストンバッグ、ポロシャツ、さらには「夏の甲子園」まで、数々の偉大なるイノベーションの生んだ水野利八。その原点には、苦労を厭わず勉強に励み、あらゆる体験を自分のものにして、誰もやらないなら"俺がやる"という精神があった。

企業という組織は、規模が大きくなるに連れて専門が分かれ、分業制になっていく。その方が効率はいい。だがそれだけではイノベーションは起こせない。

あるとき、大阪工場の幹部がほとんど退社したことがあった。社長の水野利八は残った社員にこう訴えたという。「この工場の作業は全部素人でやる。そしてこれまでと違った新しい工業的な生産方式をうちたてよう」。これは平生から"俺がやる"の心構えができていたからだった。

日頃、人に仕事を頼むとき、「承知しました」と「出来ません」という二通りの返事が得られる。また「承知しました」といってもうまくやってくれるかどうか心配しなければならない。もし、平生から"俺がやる"との心構えで努力しておれば、少々のことには動ずることなく進めることができる。

若い人に仕事を与えたとする。私だったら「もし君が社長なら、その仕事をどうするか」ときいてみる。放っておくのか、それとも誰かにききに行くのか、「どちらにしても社長になったつもりでやれば、そんなことは何でもないではないか」と。

販売でも、経理でも、そのほかのことでも、"俺がやる"というところに事業の発展がある。私は販売担当だからほかのことは知らない、といっているのでは本当の力が生れない。上に立つ人にも同じことがいえる。自分にやる力があって下の者にやらせるのと、無くてやらせるのではずい分違う。自分に力があれば、仕事の命令も的確に出来るだろうし、報告を受けてする処理もスムーズに出来ると思う。それが上に立つ人の備えるべき資格である。

このように平生から何ごとに対しても、"俺がやる"という気構えで勉強と体験を積んでおくといざというとき、確実な力を発揮できるものである。(昭和45年1月)

── 『スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語』で紹介されている水野利八の語録より抜粋

初めから経営は先進的で本格的

仁吉(利八を名乗る前の名前)は、1906年に、ミズノの前身となる「水野兄弟商会」を弟利三とともに創業した。20歳を越えたばかりの頃に、たった二人で立ち上げた小さな店だったのだが、その帳簿や規則の内容を見ると、すでに当時の立派な企業のようだった。

例えば、兄弟二人しかいない店に、仕入課、販売課、庶務課、そして商況課まで置いてあり、「金融は戦後(日露戦争後)にもかかわらず緩慢にて、日歩は一銭七、八厘なり」などという調査記録が残っている。予算・決算も明確に設けられ、半期決算を開業初年度から行っていた。さらに、規約には「何人といえども誠実にて才力あり、奮闘的人物は、店主たるの資格を得る」と記されてあり、当時、一般的に理解されていた株式会社の概念まで取り入れられていたという。

ハンカチや半ズボン、タオルなど、学生向けの洋品雑貨を扱う小規模な店にもかかわらず、"俺がやる"の気構えで勉強に励み、企業経営に必要なあらゆる知識を習得していたのである。

スポーツマンたちと縫製技術者との出会い

イノベーションは偶然の出会いから生まれる。ミズノにとっても、それは例外ではなかった。

日露戦争で患った肺尖カタルの影響もあり、仁吉は人一倍、健康に気を使っていた。著名なスポーツマンたちに積極的に近づき、健康法を聞いてまわっていたところ、そのうち彼らが店に出入りするようになり、やがてオーダーメードの運動服装を作るようになっていく。そこからスポーツウェア、スポーツ用品のパイオニアとしてのミズノの輝かしい歴史が始まる。

優秀な縫製技術者との出会いもあった。のちに社内で伝説的に語り伝えられる婦人工場長、脇屋ヌイである。

仁吉はメリヤス屋でも、織屋でも、仕入れに訪れたり商談で訪問したとき、必ずそこで何時間かを費やした。糸の使い方も、織り方も、彼はそんな時間の中で学んだし、熱心さにうたれた職人の何人かは、いつの間にか仁吉のアドバイザーを買って出て、彼が訪れるたびに新しい知識を教えてくれた。

オーダーメードのスポーツ服装を仕あげるために専従契約した縫製技術者も、もとはといえばそんなアドバイザーの一人であった。彼女は間もなく水野兄弟商会の店員となった。

──『スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語』より抜粋

新店舗で運動服装の既製品にチャレンジ

オーダーメードの運動服装が評判を呼び、店舗が狭く感じるようになると、仁吉は思い切って次の一手を打つ。新たに運動服装の既製品を作ることにして、運動用具の仕入れも増やし、さらに広い店舗への移転を決断した。

さっそく古い店舗を売り払い、従業員を4人増やし、梅田に新店舗を開店。亡き父の名を襲いで「水野利八」と名乗り、店名は「美津濃商店」に変えた。

「将来、店が発展したとき、子孫以外の人材に立派な才能をもった人ができることも考えてますんや。私の出身が、美濃の大垣やということも、からませてますけど」──彼は人々にそう説明した。

──『スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語』より抜粋

この年、利八は26歳になった。

妻いちが伝達した世界のファッション情報

世間のスポーツへの関心が高まるにつれて、美津濃商店はファッションにおいても、流行の最先端としての地位を確立していく。

いまでは一般的に使われているカッターシャツやボストンバッグ、ポロシャツなどは、全て美津濃商店が最初にネーミングを付けたアイデア商品である。だが、その原点を辿ると、妻いちの影響があった。

当時、美津濃商店の事務所の壁には、海外のファッション誌の写真がたくさん貼り付けてあったという。その世界最先端の流行情報を翻訳して利八に伝えていたのが、いちだったと伝えられている。

この得がたい助言者をもった利八は、次々に新しい流行を生み出して行く。「梅新の美津濃には、船来もんよりええ品物があるで」──そんな評判がたちまちたった。利八のアイデアをもとに、彼をとりまく下請集団はどんどん新しい流行服装を作りだして行ったのである。

──『スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語』より抜粋

運動具の生産も、学生野球大会も"俺がやる"

それまで運動服装は生産していたが、運動用具に関しては仕入れ販売のみを行っていた。だが、日本のものとアメリカの輸入品を比べると、品質に大きな差があることを利八は実感していた。そこで、金沢から呼び寄せた職人、吉岡行間とともに、野球のグラブやボールのサンプル作りを始めた。1913年には初の工場を開設し、運動用品の本格的生産を開始する。

そのかたわら、利八は学生野球大会の開催を目論む。

米国から渡ってまだ新しいこのスポーツに対する一般の認識はあまりなかった。水野さんが実業団野球大会を呼びかけたのは明治44年だったが、この人の執着は中等学校野球にあったようで、いろいろと強力な推進団体をさがしていた。毎日新聞あたりにもちかけてみたがあまり乗気でない表情だった。「そんならわてのところでやってみるワ」ということになったのが翌年の明治45年。しかしこの年は明治大帝の訃報があって国民の気持が沈み、折角の計画も一年延期された。新聞社が定期的に主催していたスポーツは毎日新聞の浜寺テニス大会があった程度で、野球に対してこんな計画をするなど、よっぽど物好き扱いにされていた。

美津濃主催の関西学生連合野球大会には、関西一円の二十五校が参加した。大正二年と年号が改まっていたこの時の優勝校は、大阪商業である。

──野田三郎『ボールを見つめて──浪商小史』から要旨(『スポーツは陸から海から大空へー水野利八物語』より転載)

当初の毎日新聞社の予想に反して、大会は非常に盛り上がった。やがて、朝日新聞社から連絡があり、利八は大会の開催権をあっさりと放棄。2年後からは全国大会として開催されることが決まった。

もともと、利八は関西地方の一民間企業の手で主催されていいとは考えていなかった。でも「だれもやらないから俺がやった」。朝日新聞社のような全国組織をもつ事業体が興味を持ってくれることに当初から期待していたというわけだ。

のちにこの大会は、"夏の甲子園"と呼ばれるようになり、多くの国民が注目するイベントへと発展していく。ただし、最初に利八が"俺がやる"の精神で挑戦していなければ、決して実現はしなかった。「大正初の偉大なるイノベーションだった」とも、言えるのではないだろうか。