インタビュー

奈良クラブをつくった元Jリーガー、迷走の日々と再起への道のり

組織を変えるには、まずリーダーが変わらなければいけない。元Jリーガーで奈良クラブ創始者・矢部次郎は、現状を素直に受け入れ、自分に足りていないものと本気で向き合うことにした。肩書きをも捨てる覚悟で変わろうとする矢部の、揺るがない信念に迫る。

サッカーJFL奈良クラブの新社長・中川政七は今年2月に行ったBNLのインタビューに、「学びの型を使ってクラブを変えていく」と語った。

中川の言う「学びの型」とは、分野を超えて通じる普遍的で効率的な学び方のことだ。この「学びの型」を用いることで、まずは選手・スタッフが変わり、サッカーを変え、ゆくゆくは奈良そのものが変わることに寄与していきたい考えという。

中川の社長就任以降、次々と新たな施策を打つ同クラブは、ある面ではJリーグのクラブ以上に世間の注目を集めている。メディアへの露出もJFLの地方クラブとしては異例の多さ。その歩みは至極順調に見える。

だが、ここへきてただごとならぬニュースが飛び込んできた。同クラブの創始者で、現体制になってからは副社長に就いていた矢部次郎が、自らの意思で副社長から降りることを申し出たという。

元Jリーガーの矢部は、選手として一線を退くと故郷・奈良に帰り、サッカーによる地域おこしと将来のJリーグ入りを目標に掲げて、2008年に奈良クラブを立ち上げた。以来、11年にわたってクラブを引っ張ってきた最大の功労者だ。その矢部がなぜ、このタイミングで副社長を降りなければならないのか。

組織はリーダーの器以上には成長しないと言われる。矢部は愛するクラブを次のステージへと導くために、誰よりもまず自分が変わる必要があることを悟った。副社長退任の申し出は、その覚悟の表れという。

矢部の決断から、ぼくらはなにを学べるだろうか。

変革するクラブのブレーキは自分だった

「ある時、クラブの成長にブレーキをかけているのが自分だったと気づいたんです。中川さんが社長になったことでクラブはいま、すごいスピードで変わろうとしている。そのスピードに一番ついていけなかったのが、ほかならぬぼく自身だったんですよ」

取材は、普段奈良クラブの選手たちが練習を行っている「奈良県フットボールセンター」で行った。選手たちが「お疲れ様です!」と挨拶する。大きな声が気持ちよかった。

春の暖かい日差しに照らされたグラウンドの片隅で、矢部は静かに告白を始めた。

矢部は自分が置かれた立場を、かつて奈良クラブに籍を置きながら、去ることを余儀なくされた選手たちに重ね合わせていた。サッカークラブが発展する上で、「経営」と「チーム強化」は車の両輪と言われる。旧体制において、矢部はその両方を担っていた。結果を残せなかった選手に「契約満了」を言い渡すのも矢部の仕事だった。

「クラブが次のステージへと行くためには、選手一人ひとりの成長が不可欠です。その成長が追いつかずに結果を残せなかった選手は、厳しいけれども、チームを去らなければならない。いま、その状況に立っているのはぼく自身だと感じています。創始者であろうと、成長できなければ居場所がないのは同じです」

今回副社長退任を申し出たのは、「いまの自分はリーダーにふさわしくない」と自覚したからだった。そのままクラブを去る選択肢さえあったというが、矢部は成長し、変わることを選んだ。再びクラブに必要とされる人間になるために、肩書きのない裸一貫のビジネスパーソンとして、イチから学びなおす覚悟でいるという。

すべてを捧げた11年。ぶつかった成長の壁

矢部はこの11年、クラブの発展のためにやれることはなんでもやってきた。営業も広報も試合の運営も、選手を運ぶバスの運転も矢部の仕事だった。シーズン途中に監督が辞任したとなれば、自ら監督となって指揮をとり、選手が足りないとなれば、急遽現役復帰してピッチにも立った。

大きなエンブレムが描かれた奈良クラブの車。赤、黄色、青の3色に、鹿がついたこのマークは、遠くからでもすぐに見つけられる。

「サッカー選手の中には特定のポジション、特定の役割しかやらないという人もいるけれど、ぼくは現役時代から、チームの勝利のためならどこでもやるという選手だった。その時々で必要な仕事はなにかと考えて、やる人がいないのであれば自分がやる。大変ではありましたけど、それはごく自然なことやったんです」

「奈良にJリーグクラブを作る」という矢部の挑戦は、ツテもない、グラウンドもない、一緒にサッカーをする仲間もいない、文字通りなにもないところから始まった。

車にボールとスパイクだけを積み込み、道場破りのようにして小中学校を訪問。その場で許可を取って、子供たちとボールを蹴ることから始めた。「冗談みたいな話ですけど、本当のことで。いまだったら絶対、不審者として通報されてますよね」。奈良市内にある平城宮跡の遺跡で、休憩中の発掘作業員に交じってボールを追い、「兄ちゃん、サッカーうまいな」と感心されたこともあった。

そうやって草の根的、ゲリラ的に活動を続けていくうちに、少しずつつながりが増え、仲間が増えていったのが、これまでの奈良クラブの歩みと言えた。矢部の愚直かつオープンな性格も、支援の輪が広がる大きな要因になった。奈良クラブがここまでこれたのは、間違いなく矢部がいたからだった。

ボールを触ってもらうようお願いすると、少年のような笑顔になってスーツ姿のままリフティングをやってくれた。周りの人々を惹きつける気さくさと、サッカーが好きという純粋な気持ちが伝わってきた。

しかし、2015年にJFLに昇格して以降、ここ数年は足踏み状態が続いていた。努力が目に見える結果につながらない日々の中で、矢部自身の心身もだんだんと疲弊していった。

「周りのクラブが4、5年もするとJリーグへと昇格していくのを横目で見て、うちもそのうち順番が来るはず、と甘い考えになっていたかもしれません。そんな生半可な気持ちで到達できる場所じゃないことはわかっているはずなのに。目の前に山積みの課題から、どこか目をそらしていたところがあったんだと思います」

当然ながら、選手上がりの矢部に経営の経験はない。ここ数年の足踏みは、そうした「手探りの経営」が迎えた限界を意味しているのかもしれなかった。昨年11月に会社化を決断したのは、その自覚があったがゆえ。同じ奈良を拠点とし、旧知の間柄だった中川を招聘、その経営ノウハウを注入することでクラブが変わることを望んだのは、ほかならぬ矢部自身だった。

だが、この「クラブの未来を思えばこそ」の決断が、皮肉にも矢部を追い込んでいくことになる。

開幕直前、人知れず迎えた空中分解の危機

伝統工芸分野で数々の会社の経営再建に成功してきた中川から見れば、それまでの奈良クラブに「経営と呼べるものはなかった」。

「戦略も収支管理もない。矢部さんに聞いてもわからないことがいっぱいある。担当に聞きにいって掘り起こしてみると、案の定なにもできていなかったりする。それを矢部さんに問いただすと『任せていたので』とだけ。自分の範疇だと思っていない。いやいや、あなた経営者でしょ、と」

中川が社長に就任し新章へと突入した奈良クラブの象徴として「N」のロゴが生まれた。「N」が示す上下への動きは、厳しい状況にも負けない不屈の心と、学び前進する奈良の伸び代を表している。

中川は、矢部の志に共鳴したからこそ奈良クラブにやってきたし、これまでの矢部の功績をもちろん認めてもいる。だが、こと経営という観点から見れば、クラブの現状は惨憺たるものに映った。そして、それを立て直すことこそが自分の役割だと理解している。だから、ドラスティックにメスを入れることに迷いはなかった。

「いろんなことが一気に変わって、おもしろくないと思う人も当然いるでしょう。だから就任して一番最初に、社員全員に向けてお願いしたんです。1年経って『これは違うな』と思ったら、ぼくをやめさせるなりしてくれていい。とりあえず1年、ぼくを信じてやってみてほしい、と。一つひとつ疑い始めたら、組織としてバラバラになって、うまくいくものもいかなくなってしまうので」

奈良クラブには若い社員が多い。またそれまでにも中川政七商店のオフィスを借りるなど、中川とは接点があったこともあって、社員の多くはそれほど抵抗することなく、新しいやり方に順応していった。

その流れにもっとも乗り切れなかったのが矢部だった。まるでこれまでやってきたことのすべてを否定されたような気持ちになって、矢部の心からは急速に前向きさが失われていった。11年間クラブのためになんでもやってきた男が、たった数ヶ月で自分のやるべきことを見失った。

「曲がりなりにも11年間やってきて、ぼくにだって誰よりもクラブのことを知っているという自負がある。中川さんにはいろんな会社を立て直した実績があるかもしれないけど、現実を知らないんじゃないかって。正直に言えば、一時はこのクラブを去ることも考えました。あるいは逆に、中川さんにやめてもらって元の体制に戻したほうがいいのか、とも」

開幕を1ヶ月後に控えて、奈良クラブは空中分解の危機を迎えていた。

1ヶ月の対話の末に「足りないを知る」

ここまで追い込まれた矢部がすんでのところで踏みとどまり、自らが変わることを決意できたのはなぜだろうか。

「そりゃあ正直ムカつきましたよ。でも、そこからの1ヶ月はとにかくいっぱい会話をしました。これこそが中川さんのマネジメント能力なのかもしれないですけど、辛抱強く向き合ってくれた。一方でぼくも、完全に聞く耳を持たないとまではならなかった」

矢部は中川との関係性について「確かに腹が立つこともたくさんあった。でも不思議と嫌いにはなれなかった」と正直に語る。

先のインタビューで中川は、「あらゆる学びはまず、足りないを知ることから始まる。それが学びの型だ」と話した。人が変わるためにはなによりもまず、変わる必要性を自覚していることが条件になる。そして、人が変わるプロセスの中でもっとも難しいのもその点であるように思える。あらゆるバイアスや感情からいったん離れ、自分の現状を正しく認識する。そのことがなにより難しい。

第三者からの指摘はその契機になり得るが、リーダーに対して「足りない」ことを指摘できる人間は少ない。だから、矢部は感情的なわだかまりを乗り越えたいま、こう思っている。「中川さんからよくないと指摘されたのは、振り返れば嬉しいことでもあった」と。

「Jリーガーにしても、引退後に指導した子供たちにしても、伸びる選手には共通点がありました。それは素直さです。他人からの評価や指摘に対して、まず素直に聞き入れるところからしか、人の成長はないんだと思う。経営者としての自分はそれまで、人から評価されることがなかった。知らず知らずのうちに井の中の蛙的になっていたのかもしれない。今回、中川さんをはじめとする周りの人が、そのことに気づかせてくれたんです」

ここに至って矢部は初めて、経営者としての自分が果たすべき役割、そしてそのためにいまの自分に足りないものがあることを自覚した。そのことが矢部に変わることを決意させた。クラブを次のステージに導くにふさわしいビジネスパーソンとなるべく、学び、変わるための準備が、かくして整ったのだった。

中川は言う。「実際、腹落ちしてからの立て直しは本当に素晴らしく速かったです。普通は頭では納得したとしても、すぐには体が反応しないという人が多いのに。ここまでの道のりは長く、そしてお互いに苦しかったけれど、彼にとって、そして奈良クラブにとって必要なプロセスだったのだと思います」

奈良クラブ オフィスの前で。矢部と中川はこれまで、ぶつかりながらも幾度となく会話を交わした。だからこそ、こうしてポジティブに前進できた。

再びリーダーになる日を見据えて

1990年、奈良・鴻ノ池陸上競技場(現在のならでんフィールド。奈良クラブのホームグラウンド)で、当時のトップリーグである日本リーグの、読売クラブとヤンマーの試合が行われた。日本リーグのクラブを持たない奈良県では、こうした試合が開催されること自体が極めて異例だった。トップレベルのプレーをこの目で見ようと、奈良県じゅうのサッカー関係者が集まった。

当時12歳のサッカー少年で、この日の前座試合に出場した矢部も、ボールパーソンとしてピッチサイドにいた。

「武田(修宏)さんとかラモス(瑠偉)さんとか、そういう人らが目の前でプレーする姿を見れて感激しました。あの光景はいまでも鮮明に覚えていますよ。でも、Jリーグクラブのない奈良県でトップリーグの試合が行われたのは、実はあれが最後なんです。29年前で時が止まってるんですよ」

13年前に奈良へ帰ってきた際、矢部はJリーグ発足以前にまでタイムスリップした気持ちにさせられたという。

「子供たちに『Jリーガーとボール蹴ったことある?』って聞いたら、『そんなんあるわけないやん。テレビの中の人やん』って。選手と触れ合うなんてJリーグのある街では当たり前のことなのに。他県での当たり前が奈良では当たり前じゃない。自分を人間として育ててくれたサッカーは、故郷・奈良の子供たちにとっては遠い存在のままだったんです」

だから誓った。必ず「奈良にJリーグクラブを作る」と。矢部にはどうしても途中では投げ出せない理由があるのだ。雌伏の数ヶ月を経て、奈良に帰ってきた当時の気持ちを取り戻したいま、矢部に肩書きにこだわる理由はなかった。

真面目で情熱的で、サッカーと奈良への愛情が深い。「まずは自分が変わらねば」と語りまっすぐ進む矢部の背中を見ていると、改めて奈良のサッカーを応援したくなった。

もちろん、リーダーとしての道を諦めたわけではない。これまでは師匠もロールモデルもないまま、がむしゃらに突っ走ってきたが、いまは中川という最高の手本がすぐ近くにいる。

「ぼくの仕事のやり方はある意味、元Jリーガーで創始者というキャラクターありきで成り立っていたと思うんです。それを自分の中で整理できていないから、スタッフの力を発揮させてあげられなかったところもあった。その点、中川さんは言語化、仕組み化がとてもうまいと感じます。もしもそのレベルに追いつけたのなら、一方ではぼくにしかない強みもあるわけで。本当にスーパーマルチなスポーツビジネスの人材になれるんじゃないかと、いまは自分に期待する気持ちになっています」

結果的に中川は、矢部の副社長退任の申し出を受理しなかった。矢部が本気で変わる覚悟を決めたいま、肩書きを外すことにはなんの意味もないからだ。

そして、覚悟を決めたのは矢部だけではない。「自分の役割はこのクラブを立て直し、軌道に乗せるところまで」と語る中川は、5年後、10年後に次のリーダーへバトンを引き継ぐ未来を見据えている。念頭にあるのはもちろん、矢部の存在だ。

「正直に言って、その道のりは生半可じゃない。経営者として身につけるべきことは山ほどありますから。でも、自分もとことんそれに付き合うことに覚悟を決めました。知っていることはすべて伝えるつもりでいるし、どれだけ煙たがられようが、細かいことまで言い続けるつもりです」

「サッカーを変える 人を変える 奈良を変える」。奈良クラブの歩みは、まずリーダーが変わるところから始まる。