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和菓子の「叶匠寿庵」:成功のきっかけを与えたのは、伊藤忠商事の社長だった

和菓子づくり未経験、39歳からの人生再出発。創業者・芝田清次は、翌日の最中を作るための材料費を稼ぐだけで日々精一杯だった。そんな彼を熱心に応援してくれたのは、自らも逆境をチャンスに変え、伊藤忠を成功に導いた越後正一社長だった。

わずか一代で、全国No.1の和菓子屋に

1958年に開店した滋賀県大津市の小さな和菓子屋「叶匠寿庵」は、15年後には日本の菓子業界を代表するブランドになっていた。

71年に看板商品となる「あも」を発売。73年に阪急うめだ本店のデパ地下に出店すると、ブームに火がつく。その後、西武池袋本店と日本橋高島屋等にも出店し、77年頃には、その3店舗で全国すべての百貨店における菓子売り場の売り上げベスト3を占めるまでになった。

公務員を辞めて未経験で創業

創業者の芝田清次は、39歳の誕生日を迎えるまで、まったく和菓子づくりとは無縁の仕事をしていた。18歳の時に徴兵され、日中戦争に従軍すると、敵軍偵察中に銃撃を受けて左目を失う。帰国後は警察官になるが、留置場に勤務していた時に同僚との間でトラブルがあり、大津市役所へ転職する。

市役所では、観光課で観光主任のポストを任せてもらえたのだが、しばらくすると「今ひとつ仕事として刺激が足りない」と感じるようになった。辞める決意を固めた頃には「激しく未知の可能性への挑戦に己を賭けてみたい」と思うようになっていたという。

1958年、芝田は家族の反対を押し切り、満39歳の誕生日に市役所を辞し、生まれて初めての和菓子づくりをスタートした。

餡炊きなどの基本は、友人の菓子屋の職長から10日間だけ教わったものの、最初はかなり苦労していたようである。炊いた餡は全体の7〜8割しか売り物にならない。それでも、明日の餡炊きに必要な丹波小豆を仕入れるために、毎日売り続ける必要があった。雨の日も風の日も雪の日も、琵琶湖の近くにある「圓満院門跡」の駐車場に止まる観光バスの乗客に向かって、窓の下から窓の下へと「お菓子いりまへんか、買うておくれやす」と声をからしながら売りさばいた。

そうこうして何とか和菓子をつくり続けて半年ぐらい経った頃のある日、店の前に立派な外車が停まり、運転手さんがうやうやしく後部座席のドアをあけた。当時、お客様の9割は近所か地元の人だったので、とても驚いたという。

参考文献:芝田清次 『花雲水―菓匠として世に生かされて』(講談社)

運命を変えた出会い

降りてこられたのは背の低い小柄な、精力的な風貌の、いかにも頭脳明晰な感じの眼の輝きをおもちの中年紳士だった。ただ、暑い盛りの夏の日ではあったにしても、その身なりはいかにも無雑作であった。開襟シャツはともかくとして、下はなんと縮みのステテコ姿だったのである。靴は一見して最高級とわかる上等の皮靴。つまり相当な地位のお方が、たまたま暇をみてふらッとお立寄りになった、いわゆる"お忍び"の感じだった。そのかたに続いて立派な奥様がお降りになった。

(中略)

「いや実はな、このあいだ知人からあんたのとこの最中をもろうてな。なんともいえん純な味わいに感心したんや。わしもこれ(奥様)もあの味が忘れられんようになってな」

そのお客様は、なんと1万円分の最中を買ってくれたという。現在の貨幣価値では、5万円はくだらない額である。特に指示したわけでもないのに、家族全員が店の前までお見送りに出た。

ふと見ると、老いた両親は、胸の前に両手を合掌させながら、まるでお念仏を唱えるように「有難うございました、有難うございました」と呟きつづけている。二人とももう顔中、涙でくしゃくしゃになっている。その顔を見た途端、私も、それまでこらえにこらえていたつもりの涙がこらえきれず、堰を切ったようにほとばしらざるをえなかった。脇の家内も泣いている。そしてふとうしろを振り返ってみると、小学生の息子と娘までがポロポロポロポロ涙をこぼし、しきりにしゃくりあげているではないか。

去ってゆく外車からは奥様が、うしろの窓に手をつけて振ってくださっている。ご主人はご主人で窓を開け、顔を突き出され「いつまでも頑張れよーッ、応援してやるぞーッ」と、車が見えなくなるまで励ましのお声をかけつづけてくださった。

その時の光景は、家族全員、生涯忘れられないものとなったはずである。

失礼にあたると思い、そのとき芝田は相手の名前を聞きそびれたそうだが、わずか10日ほど後に、再び来店してくれたので勇気を出して聞いてみたという。

「わしか、わしは伊藤忠の越後や」

その人物こそ、BNLの名言記事でも紹介した、伊藤忠の"中興の祖"と称される元社長、越後正一だったのである。

二度目の来店時には財界の重鎮、永野重雄の奥様も一緒だった。その後も松下幸之助の奥様をはじめ、数多くのお知り合いとともに、わざわざお店まで来てくれるようになった。ときには10台以上の外車が店の前に並ぶことまであったという。

人の運の勢いには、しばしば、人とのある出会いが契機となって一変する場合がある。

伊藤忠の越後さんという福の紙との出会いなどはまさに、逆風をにわかに純風に一変させるきっかけを私に与えてくださったものであった。

この上もなくご好意的な越後さんの"口コミ"のおかげで、経済界や実業界を中心にお客様の輪はしだいに京阪神一帯にひろがっていった。

栞の言葉に「祈り」を感じた

なぜ、越後正一はそこまでこの店に惚れ込んだのだろうか。注目したいのは、最初の来店時に芝田へ問いかけた次の言葉である。

「ところでご主人、あんた栞に『右は京みち 左ふしみみち』とか『花はくれない 柳はみどり』と書いておられたけど、この最中、どう思っておつくりになったんや?」

(中略)

「いや、ともかく、あんたの発想はおもしろいよ。それと、あんたのとこのお菓子にはな、わしは『祈り』を感じたのや」

「右は京みち 左ふしみみち」は、最初に店を構えた、京都と伏見の分かれ道である場所に設置された、石の道標に刻まれている文字であった。芝田自身にとっては、市役所を辞めてまさに人生再出発の分かれ道にさしかかっていた時期である。その道をとにかく歩みはじめてみようという決意を込めていたのだという。

「花はくれない 柳はみどり」は、宋時代の詩人、蘇東坡の有名な詩の一節をかりたもので、「こうして歩みはじめた以上、あとはただ万事おのずから天の摂理にしたがって推移するであろう天然自然の理に見をゆだねたい心を託したつもり」だったという。

この栞がなかったら、あるいは越後正一はお店まで来ていなかったかもしれない。これはBNLで今月公開した連続講義「ブランドのつくり方」で紹介された、ブランドコンセプト作成やコミュニケーション設計の視点から見ても、また興味深い逸話である。