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85年前の3月1日に亡くなった、カリフォルニアで一流のワイナリーを築いた長沢鼎の名言

13歳で薩摩藩の藩の命により英国へ留学。15歳で米国へ渡り、23歳でワイナリーを創設。普通の人なら早々に諦めてしまいたくなるような、たび重なる試練にも耐えながら、わずか一代でカリフォルニアを代表する一流のワイナリーを築き上げた。

1983年11月、米国の現職大統領として初めて訪日したロナルド・レーガン大統領は、国会の演説で、松尾芭蕉、福沢諭吉と並べて、長沢鼎の功績を次のように紹介した。

1865年、若きサムライの留学生・長沢鼎は、なぜ西洋が経済的に強力で技術的に進歩しているかを学ぶために日本を発った。10年後、彼はカリフォルニア州サンタローザに小さなワイナリー、ファウンテン・グローブを創設した。そこにとどまり、やがて「カリフォルニアのブドウ王」として知られるまでになった。長沢はカリフォルニアにとどまり、われわれの生活を豊かにしてくれた。日米両国は、サムライからビジネスマンに転身した彼に負うところが大きい。

原文:"Address Before the Japanese Diet in Tokyo, November 11, 1983." Ronald Reagan Presidential Library & Museum

たび重なる試練を乗り越える

カリフォルニア州でワインを造ることは、試練の連続だった。

長沢らがニューヨーク州から移住してきた翌年の1876年から77年にかけて、周辺地域の降水量はわずか30ミリで史上2番目といわれる干ばつに襲われている。しかも、当時は経済不況の真っただ中。多くのブドウ栽培農家は廃業に追い込まれていた。さらに追い打ちをかけるように、ブドウの木の根と葉に寄生して木を枯らしてしまう害虫が周辺のブドウ園に蔓延していた。タイミングとしては最悪だった。

それでも長沢にはワイン造りに挑戦する「度胸」があった。ニューヨークから共にやってきたワイン造りの経験に長けたジョン・ハイドとともに、入念な準備はできていた。4年間、研究と試作をかさねた結果、現地の気候と土壌に適し、害虫にも抵抗性のある品種を開発。満を持して、1879年に本格的なブドウ栽培にのりだし、生育に成功する。

"Maturing Pinot Noir." by Jim Fischer (CC BY 2.0)

しかし、その後も試練は続く。

広大な土地でブドウを育てるためには安価な労働力が必要となる。長沢は、当初4,50人の中国人労働者を雇っていたのだが、1882年に米国で「中国人排斥法」が施行され、彼らは全員農場から姿を消してしまった。そのため他国の移民に加えて日本人の移民も雇うことになる。そのとき注目を集めたのが、労働者との雇用関係を大切にする独自の経営手法だった。

賃金は他の農園と比べて安かったくらいだ。それでも長沢は毎日彼らに食事をあたえ、昼食をともにすることも多かったという。住む場所も提供し、優秀な労働者には仕事がなくなっても次の仕事までの生活を保障した。他の農園では考えられない待遇だった。評判はすぐに人づてで広まり、多くの優秀な労働者が長沢の農園に仕事を求めてやってくるようになった。

火災でワイン醸造装置と酒蔵の一部が焼失してしまったこともあった。それでも長沢は動じず、すぐさま再建に取り掛かり、半年後にはさらに高性能で規模の大きいワイン醸造装置を完成させる。この頃からワインコンテストで受賞できる力を持つようになり、火災の翌年には、州内八百社以上が参加したワイン品評会に出品したカベルネ・ソーヴィニヨン(赤ワイン)が、二等に入賞している。

ピーク時には生産量は20万ガロンに達し、ブドウ農園は2000エーカーもあったという。パラダイスリッジワイナリーの資料によると、約3万本のワインが保存され、全米へ、そしてヨーロッパへと出荷され、「ファウンテングローブワイナリー」はソノマ地方のワイン生産の90%を占めるまでになっていたという。(関根絵里, 朝日新聞 GLOBE+, 2018.10.06掲載)

"IMG_7670" by Aaron T. Goodman (CC BY-ND 2.0)

ブドウの木が全滅

しかし災難は続く。1905年に害虫が長沢の農園を襲い、全5万本のブドウの木が枯れてしまった。ただ、この最大の危機に直面した際にも、決して長沢は事業を諦めるような言動はとらなかった。まずブドウの木を全て処分して、新たな苗木をフランスの特約店に発注し、またいちから生育に取り掛かったのだ。

再起4年目を迎え、ようやく若木が順調に生育し始めていたころ、またしても火災が発生した。今回の出火元は農園の納屋だった。

納屋はもちろん、十二台の馬車を収納していた建物、作業員の住居は全焼した。炎は三キロ離れたサンタローザの街からもみえた。出火の原因は納屋の作業員が捨てたマッチの不始末からで、損害は5千ドル(筆者註・こんにちの約十三万ドルに相当)にのぼると報じている。(渡辺正清, 2013)

納屋や住居の再建も完成し、若木も順調に育ち、ようやくワイナリー再起の見通しがたったのは1913年頃だった。その夏、61歳になっていた長沢は、日本の故郷を訪れた。そこで記者の取材を受けたとき、あの名言が生まれた。

記者の取材をうけ、カリフォルニアにおける自分の事業について、 「原野を開拓して葡萄園をつくり、お陰でいまの身分になりました。ずいぶん苦労をしましたよ。酒蔵が焼けたり、病虫害でブドウの木が全滅したり、酒に火が入って両脚に大火傷を負ったり苦労しました。しかし、成功談や苦心談などというものは偉い人のいうことで、私なんかが口にすることではない」と控えめである。

さらに、経営の信条をのべている。「カリフォルニアで仕事をするには大きくしなければ儲からぬ。小さいことではとうてい駄目である。金を儲けるには度胸に忍耐が肝腎で、どんなに失敗してもここさえ握っておれば、きっと成功する。これから(カリフォルニアへ)行くひとはキャピタル(資本金)がなければ困難でしょう」。(渡辺正清, 2013)

"Wuppertal-Sonnborn: Wine glasses in the window of an antiques dealer" by wwwuppertal (CC-BY-NC 2.0)

禁酒法に14年間耐える

ようやく全てがうまく行き始めていた頃、またしても苦難を呼び込む出来事が起きてしまう。1920年に米国で「禁酒法」が施行され、お酒を売ることそのものが禁止されてしまったのだ。さらに1929年には世界的な大恐慌となり、長沢が融資していた地元の販売代理店が倒産。加えてカリフォルニアの排日感情は年々高まり、土地の所有を禁止する排日土地法に加えて、移民そのものを禁ずる、排日移民法(通称)まで制定されてしまった。

それでも1933年12月5日に禁酒法が撤廃されるまでの14年間、破産することなく耐え続けた。だが晩年を迎えた長沢にとって、その期間は長すぎた。禁酒法が撤廃されたわずか三カ月後、1934年3月1日に長沢鼎は82年にわたる生涯の幕を閉じた。

排日土地法のせいで、ワイナリーの跡地は売却されてしまうことになり、現在は会員制のゴルフコースになっている。ただし、隣接した場所に1994年に創業した「パラダイス・リッジ・ワイナリー」が長沢の遺志を継いでいる。その見学施設には、長沢関連の資料も展示されていたようだが、一昨年、カリフォルニア一帯を襲った山火事により大きな被害を受けている。

それでもパラダイス・リッジ・ワイナリーのFacebookページを見てみると、復興はだいぶ進んでいるようだ。今秋には焼失した建物の再建が完成する予定だという。この地には、長沢の「度胸と忍耐」の精神が受け継がれている。必ずやこの災難をも乗り越え、見事な復活を遂げられることだろう。

参考文献

渡辺正清『評伝長沢鼎―カリフォルニア・ワインに生きた薩摩の士』南日本新聞開発センター、2013
上坂昇『カリフォルニアのワイン王 薩摩藩士・長沢鼎──宗教コロニーに一流ワイナリーを築いた男』明石書店、2017
関根絵里「サムライから『ワイン王』へ 薩摩藩士・長澤鼎が築いたカリフォルニアワイン伝説」朝日新聞 GLOBE+, 2018.10.06掲載