新しい後継ぎのかたち

新技法を生み出し、インテリアブランドを立ち上げる。経営危機の町工場は、学生の人気就職先になった

廃業間際だった高岡伝統の着色工房は、三代目が新たな技法を生み出し息を吹き返した。その技法を求めてやってきた若手のプロダクトデザイナーと新ブランドもつくり、勢いは増すばかり。いまや、美術系学生の理想の就職先としても人気を博している。

富山県高岡市は、全国の生産量の9割を占めると言われる鋳物の町だ。その歴史は古く、江戸時代初めに加賀前田藩が鋳物発祥の地である河内丹内から7人の職人を招き、工場を作ったところから始まるとされる。仏像や梵鐘、全国の観光地で見かける有名なアニメキャラクターの銅像も、そのほとんどが高岡製。ひと昔前まで都内の大手デパートには必ず「高岡銅器」のコーナーがあった。

けれども多くの伝統工芸品と同じく、高岡銅器もバブル崩壊を境に急激に勢いを失う。豪奢な装飾を施された壺や、毎年需要が見込める定番商品だった干支の置物を買う人は少なくなり、デパートからは専門コーナーが消えた。1950年に創業し、銅器づくりの最終仕上げである着色を専門としてきた折井着色所(同市長江)も、ピーク時の半分近くまで売り上げが減少。深刻な経営危機に陥った。

ところがいま、この北陸の地方都市の、一時は廃業寸前まで追い込まれた、伝統工芸を生業としてきた小さな町工場に、毎年のように芸大・美大出身の学生が門を叩き、大手企業の内定を蹴ってまで就職を志願する状況が生まれているという。パートも入れて14人いる従業員の平均年齢は34歳。工房内は活気に満ちている。

高岡駅から車で20分の場所にあるmomentum factory Orii。高岡駅で乗ったタクシーで「折井着色所」と告げると、ドライバーは「折井さんね。新しくて面白いことやっているみたいですね」と答えた。折井の活動は地元、高岡でもよく知られているようだ。

傾きかけた家業を立て直し、新たな担い手となるような若い力を呼び込んだのは、折井着色所改めmomentum factory Oriiの三代目社長・折井宏司だ。デニム地に銅板をしつらえたオリジナルのジャケットに身を包み、外見から受ける印象は「町工場のおやっさん」というより「頼れる兄貴」。カヌーやバス釣りといった趣味の道具が並ぶ工場も、高岡版「世田谷ベース」を思わせる。

高校卒業後に上京し、一度は都内のIT関連会社に就職した折井は、言うまでもなく家業を守るために高岡に帰ってきた。しかし、「守るためには同時に攻めなければならない、伝統産業は変わらないためにこそ変わらなければならない」というのが彼の持論だ。折井は高岡伝統の着色工房の何を変え、何を守ったのだろうか。

素人、ヒマ人だったから生み出せた新たな技法

深い茶の中に不規則に混じる紫、黒、赤......。クジャクの羽根模様を思わせることから「斑紋孔雀」と名付けられたこの色は、数え切れないほどの色のレパートリーをもつmomentum factory Oriiにあっても、ひときわ特別な一色という。

momentum factory Oriiの打ち合わせスペースには、銅板でつくられた製品が並ぶ。

景気の悪化とともに伝統工芸の下請け仕事が減り、一時窮地に立たされていた旧・折井着色所。三代目の折井の代になって自社ブランドを立ち上げ、インテリアや建材といった新たな販路を開拓したことで復活を遂げたが、そうした新しい動きはどれも、折井が「うちにしか出せない」と言う色の数々があって初めて成立するものだ。中でも最初に斑紋孔雀色を開発したところから、反撃は始まった。

「うちにしか出せない」というのには二つの意味がある。一つは、斑紋孔雀色をはじめとするこうした色の全てがOriiのオリジナルカラーであるという意味。もう一つは、そもそも薄ぺらい銅板に着色できるのは、同社を置いてほかにないという意味だ。

折井着色所でしか出すことができなかったという斑紋孔雀色。いまでもOriiのオリジナルカラーだ。

「着色という言葉からよく誤解されますが、高岡銅器の着色というのは、上からペンキを塗るようにして色を着けるわけじゃありません。薬品を塗ったり火で熱したりすることで、銅に化学変化を起こし、色を引き出すんですよ。だから正確には、着色というより発色。表れる色も、それを引き出す職人の技術も、全ては素材ありきということです」

薄い銅板に色をつけられるのも、Oriiならではの技術だ。

例えば伝統的な着色法の一つに「糠焼き」と呼ばれるものがある。米糠に薬品を混ぜ込んだ物を鋳物に塗布し、真っ赤になるまで熱し、冷却した後、表面の黒い酸化被膜を研磨することで色を出す。だが、これはあくまで鋳物の色を引き出す技術。厚みのない銅板に対して同じようにやれば、熱で板がベコベコになってしまう。

折井がビジネスの幅を広げることができたのは、この伝統的な技法を自分なりにアレンジし、銅板にも適用できる独自の技法として昇華させたから。そして、多くの先輩職人を差し置いてそれが可能だったのには、彼自身の置かれた立場が関係していた。

実際に「糠焼き」を見せてもらった。漬物で使用する樽に入った薬品を薄い銅板に塗っていく。

銅板に薬品を塗ったら、大きなバーナーで一気に熱する。

熱した銅板を冷まし、表面を磨くと色が出てくる。

26歳の時に高岡へと戻り、そこからOJTで伝統技法の修行を始めた。技法をひと通りマスターするのには通常3〜5年はかかると言われるから、このころの折井はまだまだ知識の乏しい素人といえた。それゆえに固定観念にとらわれることもなかった。

「Aという薬品を塗るとこの色が出る。Bという薬品ならこの色。ではAとBを混ぜたらどうなるのか。こんな単純な発想で色々と試して遊んでいました。経験のある職人だったら絶対にしないんですけど、酸性とアルカリ性の薬品を混ぜてしまったりもして。まるで小学生の理科の実験ですよ。でも、そんな中で偶然できたのがこの色だったんです」

このころの折井に欠けていたのは知識だけではなかった。伝統技法の腕を磨きたくても鋳物の仕事はなかなか来ない。かと言って自分で鋳物を作るには金が足りなかった。けれども、銅板であればホームセンターで安価で買える。折井が銅板に目をつけたのは、最初からそれが大きなビジネスにつながると確信していたからではない。ないものづくしゆえの苦肉の策だったのだ。

着色の仕事は鋳物がないと始まらない。高岡銅器の需要が少なくなるに連れ着色の仕事も減り、修行をしようにもその機会がないという状況だった。しかしその空いた時間があったからこそ、いまの技術にたどり着けたのだという。

新技法といっても要は薬品や火の微妙なさじ加減だから、熟練した職人が本腰を入れて取り組めば同じことはできたはずだった。だが、鋳物の町としての歴史と伝統ある高岡で、薄っぺらい銅板に目を向ける人は他に一人もいなかった。保守本流から遠く、失うもののなかった折井だけが、失敗を恐れずにトライすることができた。そこから新しいものが生まれるというのは、イノベーションの"常道"のようにも思える。

「偶然出せた理想の色を再現できるようになるまでには、それからさらなる時間が必要でした。試行錯誤を重ね、最適な薬品の濃度、火の温度を探りました。そうしてとうとう安定して同じ色が出せるようになった時、ああ、これでずっとやっていけるなと確信したんです。その時点ではまだ、なんの未来の保証もなかったわけなんですけどね」

伝統の枠から踏み出し、自分たちの世界観を打ち出す

新しい技法を編み出したことが、すぐに結果に結びついたわけではなかった。売り上げが以前の水準に戻るまでには、ここから5年以上を要した。インテリアや建材に活路を見出し、銅板を使って時計やテーブルを作り始めたが、知り合いの店で細々と売る時期がしばらく続いた。

「協同組合の青年会を通じて展示会に出展したりもしましたが、鳴かず飛ばずでした。あくまでも組合としての出展だから、従来の枠組みにとらわれない新しいものを作ると自分一人が息巻いても、周りに並ぶコテコテの高岡銅器の中に埋もれてしまうんです。まったく見向きもされなかったわけではないけれど、到底大きなビジネスにはなり得ませんでした」

転機は旧知のデザイナーからもたらされた。インテリアライフスタイルという、デザイナーとバイヤーを結ぶ東京の展示会に、職人の技術をフィーチャーする特別枠として出展してみないかと持ちかけられた。公募制でわずか6枠の狭き門だが審査を通過し、会場入り口すぐの特等席で出展できることになった。1カ月しかない準備期間で、妻と二人でできる限りの新作商品を作り、車いっぱいに詰めて東京に向かった。伝統工芸の枠を飛び出し、初めて自分だけの世界観を世に問う挑戦だった。

東京の展示会、インテリアライフスタイルは「高岡銅器の中のひとつ」から「銅板着色のインテリアブランド」へと変わるチャンスだった。

ここから道が拓けた。東京のインテリア会社の社長に気に入られ、出展した総額百数十万円の商品全てが売れた。その後も毎年出展していると、建築、インテリア業界の人の間で「富山に面白いことをやっている人がいる」と口コミが広まった。雑誌やテレビ局の取材も増え、徐々に仕事が回り出す。こうして2008年、伝統工芸の下請けだった旧・折井着色所は、自社ブランドを展開するmomentum factory Oriiへと変貌を遂げた。

商品のデザインは当初、全て折井自身が手がけていたが、3、4年と続けるうちに行き詰まりを感じるようになった。デザイナーを雇いたい気持ちはあったが、コネも金もない。どうしたものかと思案していたそんなタイミングに、一人の若者が訪ねてきた。フリーのプロダクトデザイナーとして独立したばかりだという戸田 祐希利(とだ・としゆき)は、自分の作った商品に色をつけてくれるところを探していた。記事を見てOriiを知ったという。

戸田は、ひと通り仕事の話を終えても帰らず、色つけの技術について詳しく知ろうと食い下がってきた。身の上話を聞き、ポートフォリオを見せてもらうと、光るものがあるのがわかった。その時点では無名だったが、折井は「どことも契約していないのなら、うちと契約しよう。お互いにある意味、売名して盛り上げていこう」と持ちかけた。初めて外部のデザイナーを起用し、こうして立ち上げたのが、いまや同社を代表するブランドの一つである「tone」だ。

toneのフラワーベース。使うほどに素材感が増し、風合いが変化する。toneの製品は、いつまでも永く、暮らしに溶け込む道具として使えるものだという。

「展示会に出展するとすぐに、昨年までと感じが変わったね、と反応してくれる人が現れた。事情を説明すると、僕をそっちのけで彼に取材が殺到しました。そこからみるみる出世していって、いまでは全国各地で産地プロデュースを手掛ける売れっ子ですよ。でも、そのデザイナーに興味を持って調べた人は、初めて彼をプロデュースしたOriiの名前にも自然と行き着く。してやったり、です(笑)」

痛みを伴っても血の入れ替えを進めるワケ

こうして新しいことに取り組むのには、当然痛みもあった。父親の代からいる古い職人には、やろうとすることが理解されず、たびたびトラブルに。最終的には「あんちゃんにはついていけない」と言って辞めてしまう結果になった。周囲からは「折井着色の今後は大丈夫なのか」と心配される始末。実際人手が足りず、深夜2時まで一人工房に残って作業にあたらなければならない状況にも陥った。それでもなお、「新しいことに挑戦しなければ生き残れない」という危機感が、折井を駆り立てていた。

遠くからでもすぐわかる、折井着色所の黄色い看板が目印。

工房は周りを田んぼに囲まれた、のどかな場所にあった。

工房を抜けた先にある作業場。大きなものを着色するときは昔からこの場所を使ってきた。

屋号をOriiと改めて1年後、初めて自分で社員を雇った。リーマンショック直後で失業者があふれる時代だったから、職業安定所に募集を出すとそれなりに反応があった。地元高岡の人を優先して雇い、国や県の補助金も使って、未経験の中途採用者をいちから職人に育てた。

工房では職人たちが作業に集中していた。撮影のために中に入ると、皆が気持ちよく挨拶をしてくれた。

「けれどもここ数年は、芸大・美大出身の若者が、こちらから募集しなくても来てくれるようになりました。昨年入った新入社員3人も工芸・美術系で、一人は東北芸大卒の女の子。もらっていた内定を全て蹴ってでもOriiに就職したいと、向こうから連絡してきてくれたんです」

これだけ景気が良くなり、人手不足だと言われていても、本当に自分がやりたいことを仕事にするのは難しい。高校からずっと工芸に携わり、せっかく美大を卒業しても、思いとは違う一般的な会社員になるのが自分の人生なのか。そう覚悟を決めた時にたまたまWebの記事を見てOriiのことを知り、駆け込んだのだと彼女は話した。

同社の門を叩く若者の多くは、大学で学んだ技術を使って自分の作品を作っており、その作品に色をつける方法を探っているうちにOriiに行き着くようだった。折井はそうした若者に対して、入社後も自由に作家活動を続けることを容認している。

働く社員は若い職人が多く、活気に溢れている。動画は『金属着色職人になる旅 / モメンタムファクトリーオリイ』(ニッポン手仕事図鑑 仕事旅行社)。動画の後半では、工房で働く職人たちが熱心に、そして楽しそうに働く様子が映されている。

昨年、6年近く勤めた東京芸大大学院卒の男性社員が退職した。独立したいまは高岡に家を構え、陶芸家の妻と二人で作家活動に専念している。「彼が辞めてしまったのはすごくショックでしたけど、うちに勤めたことでそういう道が拓けたのだとすれば、それは僕にとっても嬉しいことですよ」と折井。いまではOriiの名前は、仕事と並行して表現活動を続けられる理想的な就職先として、美大系学生の間で口コミで広まっているらしい。

だが、そうやって作家活動を応援した結果、手塩にかけて育てた職人が独立してしまうというのは、決して大きくない町工場にとっては痛手のはず。兄貴肌の気質がそうさせるのか、いささか人が良すぎないだろうか。

「もちろん、うちでサラリーマンを続けながら作家活動をしてもらうのが理想ですよ。でも、表現したいものがあって、それに向かって頑張っている人のことは、やっぱり応援してあげたいじゃないですか。それに、そういう若い人たちにこの世界に入ってもらいたいという、こちら側の思いもあるんです。ほんの十数年前まで、こんな伝統工芸の世界に就職したい人なんていなかったし、こちらとしても雇える状況になかった。でもいまはそれができるので。そのうちの何人かだけでも、こんなに面白い世界があったんだと感じてくれればいいなと思っています」

経営者でありつつ、社員にとっては表現活動に理解を示してくれる「頼れる兄貴」でもある。気さくで何でも話せそうな雰囲気を持つ折井は、取材の間も終始自然体で、毎日を楽しみながら働いているような印象を受けた。

折井のこうした姿勢は、会社の枠を超えて高岡銅器の未来にも影響を及ぼし始めている。とある着色工房の息子が、一度は調理師を目指して家業を離れたが、数年で高岡に戻ってきたのだという。息子が家業を離れ、調理師免許を取ることに、彼の両親も賛成していた。だが、その息子が自ら家業を継ぐ道を選び直し、工場見学のツアーを企画するなど、高岡銅器を盛り上げるための積極的な動きを見せている。

「工場見学ツアーなどでお客さんが増えたこともあって、お洒落な打ち合わせスペースを作っていたりもするそうなんですが、聞くところによると、彼がそういう決断をしたのには僕の影響もあるらしくて。伝統工芸だってやりようによってはまだ戦えるはずだし、うちは実際にやれた。それに感化される人も、少しずつではあるけれども出始めています。うちからすればそれは、ライバルが増えることを意味するんですけど。でも、僕にはそのことがすごく嬉しく思えるんですよ」