新しい後継ぎのかたち

輪島塗の新たな光━━家業を継ぎ、エルメスのデザイナーと出会い、新ブランドを立ち上げるまで

輪島塗の後継ぎという運命。一度はそこから逃げようとした。しかしいまは、日本人に漆の魅力をあらためて伝えたいと強く思う。異端児だった父、伝統を担う職人、震災、そしてフランス人の友。さまざまな経験と出会いを通し、若き後継ぎは伝統の真のあり方を探求する。

桐本滉平は江戸時代から200年以上続く輪島塗の老舗「輪島キリモト」の八代目。後継ぎとして日々の仕事に取り組みながら、2018年3月に25歳の若さで新ブランド「IKI」を立ち上げ、そのブランドディレクターとしても新しい挑戦を始めた。

多くのほかの伝統産業同様、輪島塗を取り巻く環境も決して楽観できるものではない。桐本家は、滉平の父である七代目・泰一が伝統の中にいくつかの革新を持ち込んだことで、危機を乗り越え、今日の地位を築いた。滉平が志すのもこうした父の意思を継ぎ、この産業を未来へとつなぐことだ。

生まれた時から後継者という宿命を背負っていると思っていた滉平にとって、伝統は長い間忌むべき対象だったという。周囲から寄せられる期待と重圧に苦しみ、逃げ出そうとしたこともあった。現在のように家業と向き合えるまでには、それまでの文脈を断ち切るような天災と、偶然の出会いを経験しなければならなかった。

苦しい時期を乗り越えて滉平はいま、こう自問する。「この伝統は誰のためにあるのか」と。「伝統」を「仕事」と置き換えることで、この問いはすべての職業人に通じる普遍的なものになるだろう。

改革者ゆえの孤立

豪華絢爛な装飾を施された輪島塗の漆器はバブル期まで売れに売れた。ピークだった1990年には、蒔絵や沈金の職人は輪島にいながら東京で働くサラリーマンを優に超える年収を稼いでいたという。輪島塗の職人は誰もがなりたいと思う人気職種だった。

しかし、それからほどなくしてバブルは崩壊。日常から遠くかけ離れた高価な工芸品は売れなくなった。プラスチック製品や化学塗料の普及により、漆の需要も激減。売上はピーク時の4分の1まで縮小し、多くの会社が潰れた。

輪島塗は伝統的に120以上の工程からなる徹底した分業体制に特徴がある。エンドユーザーと直接つながり、仕事を取ってくるのは最後の仕上げ工程を担う会社の役割。そこが潰れれば各社は軒並み仕事がない状態になる。そうして多くの職人が職を失った。

桐本家は江戸時代に塗師屋として興ったが、昭和に入り五代目が舵を切って以降、木地一本でやってきた。木を刳るのが仕事の木地師は輪島塗を下支えする役割であり、エンドユーザーからはもっとも遠い位置にある。

輪島キリモトの工房。1階には大きな木材の裁断や成形を行う機械が並ぶ。工房に入った瞬間、どこか懐かしい木の香りがした。

寺院で使用する大香炉の台座を整形しているところ。ある程度まで機械で裁断して整え、細かい模様は人の手で削る。取材の日、作業を見せてくれた木地師は、滉平が子供のころから桐本木工所で働いているという。

大香炉の本体の部分。香炉は昔に比べると少なくはなったが、木地一本だったころから続く仕事だ。輪島キリモトの商品ではなく、輪島市内の老舗塗師屋から受託している仕事だという。

そんなキリモトが生き残れたのは七代目・泰一が改革者だったからだ。泰一はそれまでの木地職人に加えて、塗師屋を若くして退職した、力ある塗師を新たに雇った。また若い同志を集めて市内に店を出すなどし、独自に販路を開拓。デザインから販売までを一貫して行える体制を作り、BtoBだったビジネスをBtoCへとシフトした。

新たな技法を開発し、現代の生活に合った新商品をいくつも世に送り出した。蒔地仕上げは下地の蒔地技法を仕上げにも応用し、金属のスプーンなどを使っても傷がつきにくくしたもの。地塗り千すじ技法は、天然木に伝統的な下地と布着せを施し硬度を高め、表面は特殊な刷毛で下地の蒔地技術を応用させたもの。新たな技法により、生活の中で気兼ねなく使える商品にした。いずれも塗りと木地の職人が顔を合わせて制作にあたる一貫した生産体制が可能にしたものだ。

工房の2階にある部屋で漆を塗る作業が行われている。漆は繊細で、塗る過程で少しでも埃が入ればもう商品にはならないのだという。取材だから、ということで見学させてくれたが、部屋の戸は開けたらすぐ閉めるなど、環境が仕上がりに大きく影響することが伝わってきた。

漆を塗る工程を見せてくれた職人は、もともとは塗師の会社にいた。退職をしたところを、滉平の父、泰一が輪島キリモトに誘ったことから、この場所で働くことになった。「漆を塗る仕事は、長い年月をかけてその工程だけを修行し続けた人にしかできません。ものすごく高度な技術です」と滉平は言う。

こうした企業努力が実り、キリモトは自社のブランドを確立していった。多くの伝統の担い手が店をたたむ中、少しずつではあるが売上を伸ばし、ひとり気を吐いている。

だが、改革に着手した当初、キリモトに対する風当たりは強かった。分業が当たり前の輪島において、泰一の試みた一気通貫のものづくりはご法度と言ってよかった。たちまちキリモトは厳しい状況に立たされたという。

ところで、「輪島塗とは何か?」という質問に端的に答えるのは簡単ではない。いまや原材料である木や漆は輪島産ではないし、施される装飾も昔ほど顕著に産地ごとの特徴はないという。ゆえに輪島漆器組合は工程を重視する。「この工程を経て作られたもののみを輪島塗とする」という厳格なルールを定めているのだ。

ルールを定めたのはブランドを守るために他ならない。実際、全国のほかの漆器の産地と比べれば、輪島は落ち込み具合をかなり抑えられている方だという。けれども一方で、その厳格すぎるルールが理由で新たな挑戦に踏み出せず、市場のニーズからどんどんとかけ離れて窮地に立たされている側面も否めなかった。

このルールに従うのなら、泰一の開発した新商品は新たな技法を施されているから、輪島塗と呼べないものも多い。それでも、伝統を守りつつもそこに革新を持ち込み、いまを生きる人に使ってもらえるものを作らなければというのが泰一の考えだった。

その結果、キリモトは孤立した。幼い滉平の目に、このころの父の姿はとにかく苦しそうに映ったという。

後継ぎの葛藤

幼いころの滉平には父と遊んでもらった記憶があまりない。泰一が全国を忙しく飛び回っていたこともあり、遊んでくれたのは友達のお父さんか、親戚のおじさんが多かったという。

「仮面ライダーになりたい」「ウルトラマンになりたい」と友達が幼い夢を描くころ、滉平はすでに「職人になりたい」と将来を公言していたという。ひらがなで"しょくにん"と書いた作文も残っている。「でも、自分でなりたいと思っていたというよりは、空気を読んでそう言っていただけでした。周りに言わされていたというか......」。父から直接「継いでくれ」と言われたことはなかったが、当たり前に継ぐものとして自分を見る視線を町中から感じた。

自分が継がなかったらこの仕事は、そして職人たちはどうなってしまうのかというモヤモヤはあったが、そうやって将来を考えること自体が苦痛だった。同級生が5分で書き上げる進路に関する作文に3時間かけたこともあった。伝統は改革者である父を苦しめるものであると同時に、滉平自身にとってもある種の"呪い"として働いていた。

高校3年になり進路選択が目前に迫るころには「一旦この土地を離れたい」と思うようになっていた。大学へ行って特別やりたいことがあったわけではなかったが、とりあえず東京に行けば何か見つかるんじゃないか、そんな気持ちだった。

しかし、この"逃亡計画"は思わぬ形で頓挫する。受験のために東京に滞在していたまさにそのタイミングで東日本大震災が起きたのだ。試験は中止。輪島に戻ることになった滉平は自分の部屋にこもって津波に流される街の報道映像をひたすら見続けた。自然を前にした人間の無力さ。生活を豊かにするために作ったはずの原発が、人間自身の生活を脅している。「人間とは一体なんなんだろうとずっと考えていました」

だが、その間も父は変わらず東京の店舗に立ち、漆のこと、家族や一緒に働く職人のことを考えている。当然なにひとつ売れない時期が続いたが、それでも家族や職人たちが築いてきた家業のことを考えている。そうした姿を見たことが滉平を改めて家業と向き合わせた。「自分のことだけ考えて大学へ行くのは違うんじゃないか。はるか昔から続くこの木と漆の仕事を未来に残すために、自分もできることをしたいと思うようになったんです」

改めて向き合ってみると、職人の手による仕事のひとつひとつが尊いものだとわかった。けれども、いつのころからかその素晴らしさが日本人に伝わらず、ゆえに厳しい経営を強いられている。これはどういうことなのだろうか。そうした疑問を解く具体的な手法として、滉平はマーケティングを学ぶためにこそ大学に行こうと決めた。親に頼んで一浪し、翌春再び上京して商学部に進んだ。

和菓子切りの木地をつくる工程を見せてもらった。小さなかんなで少しずつ削り、薄く成形していく。実際にやらせてもらうと力の加減や速度などを指先で調整するのが難しい。長年、木地をつくり続ける職人にしかできない技だ。

今年初めて女性の職人候補が誕生した。愛知県の高校を卒業後、石川県立漆芸美術研修所に2年通い、兼ねてから興味を持っていた輪島キリモトの門を叩いた。

ここから人生が急速に動き始める。進んだ大学には偶然にも、日本で唯一輪島塗のマーケティングを研究している教授がいた。滉平は20年前にその教授が書いた論文を引き継ぐ形で、輪島塗のその後の20年間を概観する論文を書いた。10年前にルイ・ヴィトンとコラボするなどしていた実家の実例などをもとに、インバウンド・アウトバウンドに活路を見出す内容だった。

さらに卒業を間近に控えたタイミングで思い切って休学。文科省の留学支援制度「トビタテ!留学JAPAN」の支援を得て、自らの仮説を検証すべくフランスに渡った。

フランスでの出会い

フランスでは1年間、日本の伝統工芸品を扱うセレクトショップに販売員として立ち、そこにキリモトの商品も置いてもらった。だが、実際にはフランスに渡ってからもしばらく悩む時期が続いた。伝統も文化も共有しないフランス人には輪島塗というブランドの価値がなかなか伝わらない。「どうすれば漆の魅力が伝わるのかわからなかったんです」

一人のフランス人との出会いがそんな状況を変えた。エルメスのデザイナーを史上最年少の27歳で務めるという青年が、ある日たまたま滉平のいる店を訪れた。もともと漆というもの自体は知っていたが、「かつてマリーアントワネットも愛した、日本を代表する古道具」としての理解に止まっており、商品としての漆器と出会うのは初めてという。

「輪島塗」というブランドの表面的なことだけでなく、漆の歴史や、それを家族で守っていることなど、深層部分についてもじっくり時間をかけて伝えると、興味を持ってくれた様子だった。それどころか、彼は1カ月後に単身輪島を訪れると、滉平の家族や職人と交流し、気に入った漆器のいくつかを買ってフランスに帰国した。再会した彼は滉平に向かってこう言ったという。「君の家族のやっている仕事は素晴らしい。エルメスの価値観と通じるものも感じた。必ず未来に向けて残すべきだ」

輪島キリモトのマグカップ。蒔時技法を用いたこの商品は金属のスプーンを使っても傷がつきにくい。使い込むほどに、ザラザラした表面は滑らかになり、艶が増して明るくなるという。

彼の言葉は滉平を大いに勇気付けた。同時に「どうすれば輪島塗の魅力が伝わるのか」という積年の悩みに対する解答が得られた気がした。若きフランス人デザイナーはお気に入りの小道具のお櫃を手に「漆は程よく水分を吸ってくれるし抗菌作用もある。つまり漆器は、食べ物を美味しくするための道具なんだよ」とその魅力を説いた。滉平は改めて漆のルーツを辿り、原点に返ろうと思った。

「人類が最初に漆と出会ったのは縄文時代。蜂が巣を木に接着するのに使っているのを見つけたのが始まりとされています。石器時代には石斧を補強するのに漆を使った。その後、食器に塗ることで漆が水気に強いことを発見していきます。そこからさらに時代を下ると、お殿さまに献上するために工芸品として発展し、現在の輪島塗へとつながっていく。けれども元をたどれば、漆器のルーツは日用品なんですよ」

こうした漆本来の良さに立ち返り、「生活に溶け込むもの」というコンセプトを打ち出したのが「IKI」というブランドだ。「あらためて素材としての漆の素晴らしさを日本人に対して提案したかった。そう思えるようになったのは、もちろんフランスでの出会いがあったからです」

2018年3月に発表された「IKI」の第一弾のプロジェクト。漆が自ら呼吸する生きた素材であり、感触が人間の肌に近いという特性を活かした。右から「ヒトハダに一番近いコップ」、「ヒトハダに一番近いお椀」、「ヒトハダに一番近いボウル」、「ヒトハダに一番近いお皿 大」、「ヒトハダに一番近いお皿 小」。

フランス人からはほかにもさまざまなことを教わったという。

「フランス人は五感を切り口に自分なりにいろんな情報を掘る努力を惜しまない。お皿ひとつ買うのにも、目も鼻も耳も口も触覚も使って情報を読み取ろうとするんです。よく『フランス人はケチだ』と言うけれど、あれって要は、自分自身の基準に照らしてそれだけのお金を支払う価値があるかを吟味しているんですよね。そして一度出す価値があるとなったら、高額でもあっても躊躇なく対価として支払う。常に五感を研ぎ澄ます、これが彼らの楽しく生きるための工夫なんじゃないかと思います」

滉平が渡仏前から持っていた問題意識「作り手も消費者も揃って、漆の良さに気づけなくなっている」というのは、もしかすると、我々日本人に「自分の五感に従う」ことができなくなっているからなのかもしれなかった。

次の時代の伝統と革新

輪島に戻ってからはさまざまな職人の下について、木地から塗りまでひと通りの工程を教わった。「デザインを学び、経営の考え方を持ち込み、逆風の中で伝統と革新のバランスを追求した父はすごいと思う。でも、技術も世の中もどんどん変化していく以上、それが次の時代にも正解であり続けるかはわからない。父は自分では手を動かさずに職人をまとめるやり方で成功したけれど、この先は自ら手を動かして表現できなければ消費者の心は掴めないかもしれない」

輪島塗を手にしたフランス人は、口や肌で何度も触れ、買うに至るまでに時間をかけて吟味していた。「フランス人の、ものを買うことに対する考え方を知ってから、私自身もあまりものを買わなくなりました。よく考えて、自分がそれを買う価値があるかどうかを考えてから買うんです。」と滉平はいう。

変わるべきところは何か、変えてはいけないところはどこか。新しい時代の伝統と革新のバランスを日々模索している。正解はまだ見えないが、この先も絶対に変えるつもりがないのは、「人間の手だからこそ生み出せるものづくりの追求」だ。

キリモトには職人や技術はもちろん、昭和初期に作られた数々の木製の「型」がいまも残されている。如意や文鎮など今日では需要のないものも多く含まれているが、そうしたひとつひとつが残していくべき財産だと滉平は考えている。凝ったデザインやオーダーメイド対応、小ロットの生産は人の手だからこそできること。他社がどれだけ機械化、効率化を進めようと、「手仕事で生まれる感動とは何か、そこは絶対追求していきたいです」。

2階の部屋の棚にずらっと並ぶダンボール箱には、滉平が生まれるよりもずっと前から輪島キリモトで使われていた木製の「型」が保管されている。

経済合理性の観点から言えば、正解は別のところにあるだろう。iPhoneがまだ使えるうちから新しい型が出て、その度に消費者が買い換えるというように、とにかくたくさんものを作り、早く捨ててもらって、新しいものをまた買ってもらうというのが正しい経営判断なのかもしれない。だが、「地球規模で考えて、人間はそうした経済の原理ですら見直さないといけないフェーズに入ってきているのではないか」と滉平は言う。

「ぼくが目指すのはそういうものづくり。漆器は木と漆から作られるわけですが、木が種から育ち木材として使えるようになるまでには50〜100年、漆が取れるまでにも15年の歳月を要します。こうした素材が培われるまでにかかった長い時間を意識したものづくりがしたい。それと同じくらいの時間をかけて、ゆっくりと消費していくものを作りたいと思っています」。そして漆器には本来、それができる性能が備わっているのだ。

変わらずに守り続けなければならないものがある一方で、変わるべきと考えていることもある。それは「誰のための伝統なのか」という考え方だと滉平は言う。

「産業としてもそうだし、ひとつのプロダクトとしてもそうですが、誰のために存在するのかという考え方は改めなければならないと思うところが強いです。伝統というのはそもそも尊いもの。でも、その伝統が自分たちの安定を守ったり、権威を保ったりするためにあってはならない。これは自分自身に対する戒めの言葉でもあります。ぼく自身なんとなくここで生きていると、ついつい『輪島塗だからいいんだ』とか『家業が何代続いているからすごいんだ』というコミュニケーションをしてしまうことがあります。でもそれじゃあダメだよなって思うんです。伝統の担い手は、いまを生きる人たちをどうやったら豊かにできるかを本気で考えないといけない。もっと言えば、伝統は未来のためにこそある。これは自分の中で大切にしたい思いです」

一度は伝統の後継者としての運命を呪い、輪島から逃げ出そうとした。けれどもいまのように考えるに至ったのもまた、「自然豊かなこの輪島で、伝統の担い手である職人の人たちに囲まれて育ったからなのかもしれません」と滉平は笑う。

普段は曇りがちという輪島の町に何日かぶりに暖かい日が差した。久々に望む日本海は澄んでいて穏やかだった。子供のころに気持ちよく泳いだ、夏の思い出がよみがえった。

「こんなに天気がいい日は久しぶり。天気がいいと、夕日が綺麗なんです」と、子供のころに遊んだ海辺に連れていってくれた。「またぜひ輪島に遊びに来てください。他にもいい場所がたくさんありますから」という滉平の言葉から、輪島という町に対する強い思いが伝わってきた。