新しい後継ぎのかたち

傾いた絹工場を六代目が再生。140年受け継がれた素材と初めて向き合い、人を美しくする布ブランドを立ち上げた

商売の成功ばかりに躍起になってもうまくいかない。老舗絹工場の後継ぎは、悩み、葛藤し、運命を変える出会いを経て、絹の神秘的な力を自らの体で感じることから始めることにした。衰退しかけた家業を復活へと導く、スピリチュアルな物語。

独特の光沢を放つシルク(=絹)は、いにしえから洋の東西を問わず重宝されてきた。言うまでもなく絹は蚕の繭からとった動物繊維だ。

蚕は鱗翅目カイコガ科に属する昆虫の一種だが、1匹2匹ではなく1頭2頭と数えられる。理由は蚕が牛や豚と同じ家畜として扱われてきたから。人間との付き合いは牛や豚よりむしろ長く、養蚕は少なくとも5000年以上の歴史をもつと言われる。

一つの繭玉からは500〜1,000メートル以上の絹糸がとれる。だが蚕が繭玉を破って出てきてしまってからでは糸は途中で切れて長さを確保できない。ゆえに出てくる前にお湯につけて繭玉をほぐす。その際に蚕は蛹のまま死んでしまう。

絹の他にも人間が使う動物繊維はさまざまあるが、毛は刈っても命までは奪わない。あらゆる動物繊維の中で唯一シルクだけが命と引き換えに得られるものという。

「蚕は生まれてからたった1カ月で天に召される。そういう運命を知りながらなぜ何度も地球にやってくるのでしょうか。蚕という字は天の虫と書きます。蚕を育て、付き合っているうちに、だんだんと天の使いのように思えてきてしまいました」

写真は蚕が出てきた繭を集めたもの。本来、生糸を作るときは繭玉の中にまだ蚕がいる段階でお湯につけてしまう。

そう語るのは、富山県南砺市城端(じょうはな)にある松井機業の6代目、松井紀子。「しけ絹」と呼ばれる珍しいシルクを用いた新ブランド「JOHANAS(ヨハナス)」が若い女性を中心に人気を呼び、傾きかけた家業を立て直すことに成功した。地元産のシルクを織りたいという夢を追って2015年からは養蚕も始めた。

JOHANASの商品、赤ちゃん用のスタイとミトン。絹の光沢があるためスタイをつけると顔が明るく見えることから、お祝いの写真撮影でも使われている。繊維の中で肌へのストレスが一番少ないと言われる絹は、ミトンをつけた手で顔をこすっても肌への負担が少ない。

「蚕には半月紋、星状紋と呼ばれる模様がある。つまり月と星を背負っているんです。口から吐く絹の字は糸偏に口と月。さまざまな形で人に恩恵をもたらしてくれるのは、なるほど月のエネルギーを口から出しているのかと」

松井はもともと虫が大の苦手。家業に対しても興味がなかった。継ぐことを決意してからもしばらくは商売としての成功だけを追っていたが、うまくいかない時期が続く。好転したのは、とある出来事がきっかけで「素材の声に耳を傾けてから」という。

松井の話は少々宗教じみて聞こえるかもしれない。自分でも「お蚕教の信者になってしまった」と笑う。けれども一人の"狂信"が周囲を巻き込み、新たな発想を生み、ビジネスを広げていくことが確かにある。松井機業復活の道程からはそのことを感じずにはいられない。

しけ絹を守ってきた140年間

松井機業のある城端町は東西約8キロ、南北約13キロの長楕円形をした小さな町だ。格子戸、石畳、白壁の古い建物が並び、漂う静謐(せいひつ)な空気に自然と身が引き締まる。

町の中央に位置するのは蓮如上人が450年前に建立したとされる浄土真宗大谷派別院善徳院。しかし、町そのものが別院の境内と言った方が正しいのかもしれない。取り囲むように流れる山田川、池川はさながら天然のお堀。毎朝6時の鐘の音で町全体が目を覚ます。

松井機業の工場から歩いて5分ほどの場所にある浄土真宗大谷派別院善徳院。建立して450年経ったいまでも、城端で暮らす人々の生活に溶け込んでいる。

城端で機織りが始まったのも別院が建ったのと同時期とされる。福光、五箇山という古くからの絹糸の産地に近く、湿度の高い気候が機織りに向いていた。

しかし、大正時代に三十数軒あった機屋は、その多くが店を閉じた。バブル期をピークに和装需要が減退、着物の生産が激減したのが最大の理由だ。現在も動いているのは松井機業ともう一社だけという。

1877年創業の松井機業の歩みは、いつの時代も「しけ絹」と呼ばれる特殊なシルクとともにあった。通常は1頭の蚕が一つの繭を作るが、稀に2頭の蚕が吐きあった糸が絡み合って繭を作ることがある。確率的にはだいたい100個に2、3個できるかどうか。こうしてできた繭を玉繭といい、玉繭からできた絹糸を玉糸という。玉糸で織られた絹がしけ絹だ。

玉糸は太さが不均一な上、通常の絹糸より多くの節ができる。だから着物に使うのには適さないとされてきた。多くの機屋は儲かる着物用の絹の生産に集中。しかし前述したように着物の生産が落ち込んだことで、そうした機屋は窮地に陥った。

糸が不均一であることから模様のようになって見えるのがしけ絹の特徴。

松井機業が特殊だったのは、このしけ絹をインテリア商品として扱ってきたことだ。約140年前にしけ絹を和紙に貼り合わせた襖を開発。着物用としては不評でも、襖であれば不均一な玉の模様が綺麗に見えるし、シルクによる乱反射で部屋が明るくもなる。この襖が着物の需要が落ちて以降も松井機業の経営を支えた。

しけ絹でつくられたシェードカーテン。日の光によって玉の部分がキラキラとひかり、部屋を明るくするという。

「なぜこういうアイデアが生まれたのかは想像の域を出ませんが、富山は日照時間が短く鉛色の空が多い。この土地の人の光に敏感なところ、ちょっとでも部屋を明るくしたいという思いがそうさせたのかもしれません」

しかしその松井機業も近年は経営悪化の一途をたどった。20年前まで30、40人いた従業員も4人になり、親族4人を加えて現在は計8人だけに。かつて機織りの担当は朝から晩まで機織りだけをしていたが、いまは糸繰りや管巻きといった作業の全てを行わなければならなくなった。2008年の記録的な集中豪雨の被害を受け、工場も半分に縮小した。

現在城端で絹の生産を行なっている工場は二軒だけ。昭和33年につくられた煙突がいまでも松井機業の目印になっている。

松井は女三姉妹の末っ子としてこの家に生まれたが、家業にはまったく興味を示さず、大学卒業後は東京で証券会社に就職した。父はシルクについて熱く語るタイプでもなかったし、面と向かって「継いでくれ」と言われることもなかった。

「衰退産業だし、古臭いイメージ。富山に帰ることがあっても老後だろうと思っていました」。同居していた下の姉とともに親戚に呼び出され、「このままだと家業が潰れるぞ」と暗に跡を継ぐよう脅された際も、曖昧な返事をしてその場をやり過ごした。

運命を変えた二つの出会い

そんな松井がJOHANASを立ち上げ、家業を救うようになるまでには二つの転機があった。

一つめの転機は、東京の証券会社で働き始めて3年目の2010年。上京した父に「まだ会ったことのない染色会社の社長と初めて会うから、一緒に行かないか。面白いが話聞けるかもしれんぞ」と誘われた。「面白い話が聞けるなら」と軽い気持ちでついて行ったが、そこで交わされた二人の会話に衝撃を受けた。

蚕には家畜としての長い歴史があり、1頭2頭と数えること。繭玉には蛹を守るために紫外線をカットしたり、水分量を調節したりアンモニアを吸着したりする性質があること。人間の肌とアミノ酸の構成比率がほぼ一緒で、そのために手術の糸にも使われていること。聞いたこともないシルクの話が次々と飛び交う。家業をただの衰退産業と見ていた松井にはすべてが驚きだった。

「めちゃくちゃ可能性あるやん、と。目の前がキラキラして見えました」。得意の妄想癖に火がつき、やってみたいアイデアが次々に沸いた。「ここで帰らなければ絶対後悔する」と勤めていた会社を辞め、当時付き合っていた男性もいたが、家業を継ぐことを決めた。父が苦労していることは知っていたから、新しい道を作って親を助けたいという思いもあった。

古臭い衰退産業だと思い興味すら持つことのなかった家業が、急に可能性の宝庫に見えた8年前。東京での生活に区切りをつけ、松井機業の暖簾を背負うことに決めた。

数年ぶりに故郷に戻り、改めて家業と向き合ってみると、現状は問屋からの発注通りに着物や襖を作り、それを卸すだけ。エンドユーザーの顔がまったく見えないことが最大の問題として映った。そこで「いまの時代にあったしけ絹の商品を作らなければ」と新商品の試作に着手。片っ端から展示会に並べ、得られた客の反応をもとに改良していくことを試みた。

生糸を織れる状態の糸にするために糸繰りをする。しけ絹は玉があるため引っかかって切れやすい。だからときどき人の手で丁寧に整えなければならない。

昔から使っている古い機械は精密で、長年経ったいまでもしっかり動く。ガシャンガシャンと大きな音を立てテンポよく動き続けていた。

織った糸は熱湯に入れてタンパク質を除去する。タンパク質がなくなることで、いわゆるシルクの手触りがうまれる。

しかし、このやり方はすぐに行き詰まった。「お客さんの声に耳を傾けることばかりをしていたら、いつしか何が本当に自分のやりたかったことなのかがわからなくなってしまったんです」

つてをたどり、とある著名なテキスタイル・デザイナーと連絡を取ると、藁にもすがる思いでアドバイスをもらいに行った。それが2011年の3月11日だった。ありったけの生地を持ってオフィスのある銀座に赴くと、午後3時のアポイント直前に未曾有の大地震が起きた。余震の続くなか、お互い机の下に隠れながらやり取りをした。ろくに話は聞けなかったが、ズバリ言われた短い言葉はいまも鮮明に残っている。

「あなた、布との距離があるわ」

せっかく絹に囲まれた生活をしているのに、外ばかりを見ていて絹の声を聞いていないと指摘された。どうしたらいいのか皆目わからなかったが、結果としてこれが二つめの転機になった。富山に帰り、仏壇の前で途方に暮れていると、ふと襖に使われているしけ絹がキラキラと輝いているのが目に入った。

「松井機業は何代にも渡ってあの素材に助けられているんだなあと。私もこういうものを作らなければいけない」。それからは客の声を聞くために外にばかり出ていた生活を変え、意識して製造に入るようにした。毎日絹と向き合う中で、朝と晩では絹の表情が変わること、季節によって見え方が違うこと、光の演出次第でさまざまに輝く素材だということが見えてきた。

そうして素材ととことん向き合った末に生まれたのがJOHANASというブランドだ。2014年に立ち上げると、ストールやインナー、枕カバーなどが若い女性の人気を呼び、百貨店でも新たに扱ってもらえるように。数年で松井機業の新たな柱と言えるまでに成長し、復活の原動力になった。

しけ絹を地元の草花実で染色したストール。

自然の玉模様があることで光の通過率がまばらになり、木漏れ日が差し込んだような明るさに。女性の肌をきれいに見せてくれるという。

"狂信"が生む縁と恩と運の好循環

JOHANASを立ち上げてしばらくすると、松井は地元・南砺市産の糸でシルクを織り上げるという新たな夢を抱くようになった。全国的にみて養蚕に携わる人の数は年々減っているが、それは南砺市でも同じ。絹糸の生産は何十年も前から行われていなかった。

かねて付き合いのあった南砺市長・田中幹夫に相談し、後ろ盾の確約を得ると、2015年から工場の一角で養蚕をスタート。こうして蚕との付き合いを始めたことが、松井の価値観を大きく変えた。

「城端に戻ってきた当初は、自分の代で家業を立て直す、年商何十億円にまで成長させると言って、ただただギラついていました。しけ絹はそうしたエゴを押し通すための道具に過ぎなかった。エゴの塊だったと思います」。先だって指摘された「布との距離がある」とは、まさにそうした部分を指したものだったのだろう。

自ら蚕を育てるようになったことで、そこからの松井は人が変わったようになった。絹糸が蚕の命と引き換えに得られる素材であることを実感し、またさまざまな効能や歴史的背景、言葉の成り立ちなどを調べれば調べるほど、蚕は命を賭して、人間に地球との共生の大切さを訴えているように思えた。「いまでは自分はお蚕さまの忠実なしもべ。私の体をどうぞご自由にお使いくださいと思うようになりました」。かくして松井は"お蚕教"に入信したのだ。

周りのたくさんの人に助けられているという松井。「やりたいことはどんどん口に出した方がいい。そうすればいろいろな人が覚えていてくれて、協力してくれたり情報を教えてくれたりするんです」

周りからはあまり宗教じみたことは言わないほうがいいとアドバイスされる。自分でもその自覚はあるという。けれども"お蚕教への入信"とJOHASASの成功は、切っても切れない関係にあるようにも見える。

例えば枕にまくシルク「美髪シルク」は、「絹のスカーフを枕にひいたら髪の毛がまとまりやすくなった」という知り合いの話を聞いて試したら、それまで鳥の巣のようだった寝癖が落ち着いたことから生まれた商品だ。「美唇シルク」もそう。マスクの内側にシルクを一枚入れたら喉の乾燥が治ったという経験に着想を得た。女性に寄り添った商品の数々が生まれたのは、体を捧げて自ら試した結果だった。

JOHANASの美髪シルク。くせのある髪に悩みを持つ女性に人気がある。枕に敷いて寝ると、髪だけでなく肌にとっても良いのだとか。

松井は自身の歩みを「縁と恩と運でなんとかやってこれた」と振り返る。市や県をあげてのバックアップを受けられているのもそう。わざわざ松井機業を訪れ、"スピリチュアルな"説明に深く耳を傾けた上で、同じ熱量を持って売ってくれる販売員と出会えたのもそうだ。「そうした一つ一つの出会いがなければいまはなかったと思います。本当にありがたいこと」と松井は言う。

だが、そのようにして人を惹きつけたのもまた、「自分の感情に素直に、ワクワクすること、楽しむことを大切にやってきた」という松井の"狂信"とは言えまいか。時に人は、そうした熱に冒されるようにして一つところに集うもののように思える。

地元産の絹をつくりたい

熱を持って何かに取り組むと、興味はどんどんと深く、そして広く派生する。やるべきことも、できることも増えていく。2017年の春には蚕の餌を自前で確保すべく、地元の子供たちと一緒に敷地内に40本の桑の木を植え、育て始めた。

質のいい植物を育てるには土が大切になる。土中にはたくさんの微生物がいたほうがいい。そう聞いて家の敷地を掘り返してみたが、何もいなかった。そこで再び南砺市長を頼り、土作りを生業にしている人を紹介してもらって牛糞の堆肥をまいた。すると太いミミズが現れ、柔らかい肥えた土ができた。

桑の木を栽培している庭に案内してくれた。いい土で育ったこの桑の葉は人間が食べてもほのかに甘みを感じ、熟した実もみずみずしく美味しかった。

取材に行った日はすでに飼育の時期が過ぎていて蚕を見ることはできなかったが、飼育場に案内してくれた。蚕は藁で編んだ台の上で繭をつくる。

その「土作りを手伝ってくれた人物」こそが現在の松井の夫である。蚕がきっかけとなり、菌がつないでくれた縁だ。その後も絹と蚕に囲まれた生活を送っていたら、新たな命も授かった。

こうした自分の経験をもとに、これからも「細胞レベルで喜ぶものを作っていきたい」と松井は言う。いま構想している最新の商品は、人が中に入れる繭状のカプセル。手が器用な夫が竹で造形し、松井がそこにしけ絹を貼る。しけ絹のまばらな模様を通して不規則に光が差し込むことで、木漏れ日のような安らぎをもたらすのではという発想だ。

「現代人の生活は社会の要請に従うことが優先されて、自らの体が発する声に耳を傾けることができていないように思えます。それが心身の不調を招いているのではないか、と。繭玉に包まれ、世の中から少し離れて自分と向き合う時間を作ることで、人々の暮らしはいまよりよくなるかもしれない」。オフィスの一角に繭玉カプセルがずらりと並び、仕事に疲れたビジネスパーソンが入って瞑想に耽る。そんな冗談みたいな光景が近い将来に見られるのだろうか。

ところで、松井がこんな風に世の中を眺めるようになったのは、"お蚕教"とは別にもう一つ、城端の象徴である別院に通い、「お朝事」と呼ばれる法要を欠かさなくなったからという。

別院にて。小さな頃からよく通っていた遊び場だ。一番思い入れのある場所で撮影したいと告げたところ、松井が選んだのがこの場所だった。

「古臭い家業、お堀に囲まれた小さな寺内町。高校生のころはそこからいち早く出たいと思っていました。けれども再び戻ってきて、やっぱりこの土地が好きだったんだと気づかされました。いまでは首くらいまでどっぷりと浸かっていますね」

この冬には結婚式も別院で挙げた。境内にそびえ立つ巨大な蓮如上人の像はどことなく亡くなった祖父に似ている。東京のOL生活も悪くなかった。だが、140年続くゆかりの地は、やはり水が合うらしい。