新しい後継ぎのかたち

祖父から父、父から息子。裏起毛衣類のパイオニアは二度の経営危機をバトンリレーで乗り越えた

歴史はあるが管理がずさん。技術はあるが見せ方が下手。倒産しかけた二代目の父親の会社に入社した鷲尾岳は、後継ぎの模範となるような、華麗なる経営改革と、新たな話題を呼び込む新製品を作り上げた。

2016年に行われたリオデジャネイロ五輪。男子4×100mリレーで陸上日本代表は史上二度目の銀メダルを獲得した。この快挙は、得意としてきたアンダーハンドパスの改良と、バトンパスの際のスタートを4分の1足長伸ばすという決勝直前の判断が功を奏したとされる。一方、3位入線したアメリカ代表は、バトンの受け渡しの失敗が理由で失格処分を受けている。

バトンリレーはうまくいけばチームを推進する"加速力"になるし、失敗すれば致命傷にもなる。これは会社についても同じことが言えるのではないか。

兵庫県加古川市にあるワシオ株式会社は裏起毛衣類のパイオニア。独自の起毛技術により圧倒的な保温力を実現した肌着「もちはだ」は50年にわたって愛されるロングセラー商品として同社の経営を支えてきた。ワシオは63年の歴史の中で二度の大きな経営危機を経験している。一度目は1990年。二度目は2015年。どちらの危機を乗り越えるのにも「後継ぎ」のストーリーが絡んでいる。

祖父から父へ、父から息子へ。バトンはどのように受け渡され、その結果会社には何がもたらされたのだろうか。

突然死した父の教えを忠実に守る二代目

ワシオの前身である鷲尾商店の創業は1955年。古くから日本有数の靴下の産地として知られる加古川市で、現社長・鷲尾吉正の父にあたる邦夫が、靴下の卸売りの会社として興したのが始まりだ。

創業者、鷲尾邦夫の肖像が会議室に掲げられている。

看板商品の「もちはだ」が誕生したのは、その15年後。取引のある靴下生産者の一人が偶然もちはだの原型となる裏起毛の生地を発明し、邦夫の元へやってきた。邦夫は仲間とともにこれを商品化しようと試みたが、当時の技術ではかかと部分を縫うのが難しく、靴下としての製造は断念。代わりに、まっすぐな円筒生地だけでかかと部分を必要としないタイツを作るという逆転の発想で、もちはだは誕生した。

もちはだの保温力は、某大手アパレルブランドの機能性肌着の約2倍と圧倒的。これは、公的機関による後の調査で証明されている。一般的な機能性肌着は「発熱」というアプローチだから、熱くなりすぎたり、着用時間が長くなると逆に発熱しなくなったりというデメリットがある。その点、もちはだに用いられているパイル起毛技術は、空気の層を作ることで体温を逃さないメカニズム。ゆえにいつでも快適を保つ。また、軽い上に伸び縮みするから着心地も抜群だ。

ループと起毛で二重に断熱する。この独自の技術が他社が真似できない「もちはだ」最大の強みだ。

世界的な冒険家として知られる植村直己も、もちはだの靴下を愛用したとされる。この圧倒的な素材を武器に、しばらくは「何を作っても売れる」状態が続いた。

しかし1990年、突如として会社を揺るがす大事件が起こる。邦夫が急死したのだ。当時31歳だった吉正はワシオの専務として、すでに家業を継いでいた。だが、「その時」はあまりに早く、そして突然にやってきた。ワシオはこの年、創業以来初めて赤字に転落した。

吉正は経営者としての自身を「典型的な二代目」と表現する。突然バトンを受け取り、いきなり大きな危機に直面していたという状況もあり、先代である父親の教えを忠実に守り、踏襲していくことを心がけた。

「その一つが海外進出です。親父は生前、『全世界の寒いと言われている地域でもちはだを提供したい』と言っていました。晩年は韓国に進出しようと模索もしていたんですが、残念ながら実現しないままに亡くなってしまった。親父だったらどうするか。そんなことを考えていたら、代表に就任した数年後に中国との縁ができた。この縁をたどって、上海でもちはだを販売することを始めたんです」

現社長の鷲尾吉正。自分の父親が創業した会社のバトンを受取り、いま息子に経営のバトンを渡す準備を進めている。

これが大きな成功につながった。当初は既存の国内工場で生産し輸出していたが、すぐにキャパシティオーバーに。そこで、中国進出を手伝ってくれていた会社との合作で現地に工場を設立。その後は中国で生産したものを"逆輸入"するまでになった。見切り発車でスタートせざるを得なかった経営者としての歩みだったが、こうした成功体験を積み重ねることで、吉正は徐々に自信をつけていった。

順調な経営はその後十数年間続いた。だが、2012年になって再び大きな危機がワシオを襲う。中国の政治体制が変わり、"贅沢禁止令"が公布されたことで高級市場が一気にしぼんだ。高級下着として一定の地位を築いていたもちはだにとっても、これが大きな打撃になった。

一方、国内では安価な機能性肌着が普及し始め、強力なライバルとして立ちはだかった。また、円安の影響で中国からの"逆輸入"で帳尻を合わせることもできない状況に。さらに追い討ちをかけたのが2015年の記録的な暖冬だ。売上前年比6000万円減の大打撃を受け、順風満帆に見えたワシオはたった3年で「このままだと倒産する」ところまで追い込まれた。

大学卒業後、いきなり中国で焼酎を売る新規事業を立ち上げ、実戦形式で経営を学んだ鷲尾岳が、家業倒産の危機を救った。

三代目登場。人でなしと罵られても大鉈を振るう

この創業以来の危機を救ったのが吉正の次男・岳だった。もともと家業を継ぐ気などなく、自ら起業するつもりでいた岳は、大学卒業後は同級生が選ぶような"普通の就職"はせずに「すぐに中国に送り込んでくれるぶっ飛んだ会社」を父親に紹介してもらい、海を渡る。そこでビジネスのいろはを叩き上げで学んだ。

入社して1週間で新規事業の事業計画書を作るよう指示され、わからないことは「ググりながら」なんとか書き上げた。たまたま神戸の焼酎の会社とツテがあったため、それを仕入れて天津で現地の日本人向けに売るビジネスを始めた。とにかく飲み会に顔を出すことで、ゼロから販路を開拓。「自らリヤカーを引いて酒を売り歩く22歳の日本人」は現地でも話題になった。

実家には度々帰っていたが、あるころから両親が経営方針をめぐって喧嘩をする場面に遭遇する頻度が増えた。岳はその仲裁役。家業の経営状態が芳しくないことは嫌でも伝わってきた。そして2015年の冬、いよいよ危機感を抱いて岳は帰国した。形式上は父親に頼んで入社した形だが、内心は「自分が親父を助ける」覚悟でいた。

このままでは父親の会社が倒産するのは時間の問題。当時24歳だった次男は、自ら会社を救うための挑戦を始めた。

とある関西ローカルの情報番組に取り上げられたことがきっかけで、もちはだはその後の2週間で7000万円の売上を記録。幸いにしてワシオは当面の危機を回避することができた。けれども入社してみてわかったのは、同社が抱えた問題はより深刻で、本質的なものだということ。「本当の地獄の日々は、むしろここから始まりました」

何が問題かが見えないのが最大の問題だった。というのも、岳が入社するまで、同社ではあらゆることが手計算の"どんぶり勘定"で行われていた。「例えば二人いる原価計算担当はそれぞれ別のやり方をしていて、一方では300円のところ、もう一方では350円で計算されているありさま。これではどこに問題があるのか分析のしようもないですよね」

まずは、社内のあらゆるものを数字に直すところから始めなければならない。入社してすぐはあらゆる係数の洗い出しとデータ化をずっと行っていた。そして1か月後、棚卸作業を開始すると3日間、岳はほとんど一睡もせずに一人で作業にあたった。そうしてすべてを数字として見える化し、Excelにまとめて父親に突きつけた。それまでは決算猶予直前の2カ月をかけて全社総出で行っていた作業。これには吉正以下、社内の誰もが驚かされた。

まずは会社の問題をきちんと可視化することから着手。そこから経費削減の改革をスタートさせた。

これで改善のための土台は整った。だが、肝心の見えてきた数字は芳しいものではなかった。また、すべてを見える化すると、ややこしい人間関係も見えてくる。検品作業を親戚の会社に不当に高い賃金で外注してきた実態もつまびらかになった。

これをすべて自社でやることにすれば、かなりの経費削減が実現できる。試算に基づいて資料を作り、社長に提出。外注先である親戚に説明に行ってもらったところ、返ってきたのは「この資料を作ったのは誰や!人間やない!」という罵倒の言葉だった。

しかし、多少の摩擦があっても必要と思うことを粛々と進める強さが岳にはあった。結果、売上5億円の会社がこの1年で1億5000万円の経費削減に成功。いい意味でも悪い意味でも和を重んじてきたそれまでのワシオに、岳はドライな経営判断を持ち込んだ。

社内の問題に解決の糸口を見出すと、次は外に出て、いままでのワシオにはなかった新たな価値を、一緒に作っていける協力者を探し求めた。

受け継がれたスペシャルな技術に外の視点を掛け合わせる

岳がもたらしたもう一つのもの。それは外の視点だ。

「もちはだは間違いなく特別。そう言えるのは、単に高性能というだけでなく、それがワシオにしか作れないものだからなんです」

もちはだが約50年前、靴下製造の応用で発明されたというのは前述した通り。しかし驚くべきことに、ワシオでは様々に商品ラインナップを増やした現在に至るまで、当時の靴下の編み機を改造して使い続けている。当然、改造のためのパーツなどこの世には存在しないから、職人が自らそれを作ることになる。ワシオにはそれ専用の工房があり、ガスバーナーやグラインダーなど、機械製品の製造現場さながらの設備が整っている。繊維の職人が火花を散らして溶接する。この奇妙な光景を前に、工場見学者はみな眼を見張る。

加古川にあるワシオの工場では、140台以上の丸編み機が稼働している。40年以上前から独自に開発を積み重ねてきたものだ。オルゴールと自転車の駆動部分を組み合わせたような複雑なアナログの仕組みにより、必要な箇所に起毛を施しながら自動的に素材が編み上がっていく。その機械の開発を担当する小谷章二は、もはや繊維職人としてのスキルを超越している。ただし小谷はすでに70歳を越えている。技術継承の課題もある。インタビュー中、三代目は自らその技術を学ぶ意欲を示していた。

なおかつ機械のメンテナンスやカスタマイズにマニュアルは存在せず、職人の経験と勘に頼るしかない。悪く言えば属人的。ゆえに誰も真似できない。「ワシオのアイデンティティはここにある」というのはそういうわけだ。

問題は二つあった。一つはそうした良さが世の中にまだまだ伝わっていないこと。たった15分の情報番組により首が繋がったという2015年の出来事は、もちはだのモノとしての素晴らしさを証明すると同時に、それがいかに伝わってきていないかを物語っていた。どうにかこうにかここまでやってこられたことで、社内の人間はそのことに気づけていなかった。

もう一つの問題は「決定的にダサいこと」だと岳は言う。「もちはだは肌着として販売してきた商品。そのため『あったかいけど、一枚で着るのはちょっと恥ずかしい』という声が多かった」

この二つの弱点を補うものとして昨年取り組んだのがクラウドファンディングだった。一枚で着られるスタイリッシュさを備えた「ラグランT」を新たに開発し、素材の確かさや背景にある技術のユニークさといったストーリーとともに発信。1303%という目標を大きく上回る大成功を果たした。

こうしたアイデアは既存の社員だけで考えていても出てこない。とはいえ、経営状況を考えれば若いクリエイターを新たに雇う余裕もない。「外部の人をいかに巻き込むかが大事」と岳は考えた。

そこで、外部のブランドディレクターを起用したアウトドアブランド「YETINA(イエティナ)」に、会社として次なる進化の可能性を見出し、事業を加速させた。高性能の素材はあれどアイデアやセンスがないワシオ側と、センスはあるが実績や先立つ物がない若いクリエイターは、お互いの強みを活かし、弱みを補完し合うことでwin-winの関係になれた。

他にもオンラインサロンに参画したり、ラジオ番組を始めてゲストのミュージシャンの影響力を活用させてもらったりと、外部の知恵を取り入れるための工夫をいくつも重ねた。

それまで接点のなかった人たちとの付き合いができ、メディアの掲載が増え、それが新しい仕事につながった。暇を持て余していた工場は、いまや一周回って「なんでこんなに忙しいんだ」と職人が愚痴をこぼすほどの状況になっている。目下の課題は、業務効率をいかに改善するか。まさにうれしい悲鳴だ。

入社後、自分の改革の提案を父親は素直に受け入れてくれた。だからこそ、いまの成功があるという。

対照的な二人。でも・・・

伝統を守るべく父親の教えに忠実に従い、和を重んじてスタッフを全面的に信頼してきた二代目。人でなし呼ばわりされてもドライに改革を断行し、次々に新たなチャレンジをする三代目。対照的にも見える二人だが、ぶつかることはないのだろうか。

「だって結果が圧倒的でしたから」と笑うのは二代目・吉正の方だ。「最初は3年くらい、上海で遊ばせておけばいいくらいのつもりでいたんです。それが、全社総出で2カ月かけてやっていた棚卸しをたったの三日でやりきってしまった。本当に驚かされました。その後も約2年間、時には夜遅くまで、一日も休むことなく働いてくれて。誰より働いているのは明らかだったし、結果も圧倒的。となったらもう、口を出す余地なんてないじゃないですか」

一方の岳は「これが社長のすごいところ」と父親を立てる。「かなり早い段階で『お前が好きなようにすればいい』と言ってくれた。内心はぼくのやり方に対してストレスもあっただろうし、嫌な思いをすることもあったと思うんです。なのにそれを素直に受け入れることができる。そこはぼくには到底真似できないところです」

「任せられる後継者がいない」というのは、町工場に限らず、企業が抱える最大の経営課題の一つ。だが、これはたしかに跡を継ぐ側の能力の問題である一方で、跡を継がせる側の度量の問題と考えることもできる。バトンリレーは受け渡す側にも技術が求められるのだ。

過去のイノベーションがあったからこそ、いまの成功がある。インタビューを行った会議室には、祖父の時代から三代に渡って作ってきた製品が並べられている。

ワシオは昨年に続き、今年もクラウドファンディングを実施した。このほど終了した「冬の朝、パッと布団から出られるパジャマ」のプロジェクトは、前年の「ラグランT」を上回る2234%の大成功を遂げた。二つのプロジェクトに通じるテーマは「世の中から寒いをなくしたい」。この言葉に込めた思いを岳は次のように語る。

「布団から出られないでもぞもぞする時間って、本当に無駄でしかないじゃないですか。その時間を有効活用できたら、いろんなことできる。このアイテムがあれば本当に生活が変わるんです。『寒い』をなくすことで全人類を幸せにしたい。これがぼくらのやりたいことなんですよ」

この秋にMakuakeで新たに立ち上げた「冬の朝、パッと布団から出られるパジャマ」のクラウドファンディングは、大成功を収めた。一般向けの発売は、2019年3月頃を予定している。

全人類を幸せにする──。なんともでかい話だが、後継ぎであるには、個人的にもどうしても"大きなこと"を掲げる必要があった。「これは基本的には、元々はおじいちゃんのビジネスであり、親父のビジネス。継いでいくという時に、ぶっちゃけ思いを乗せにくい部分がありました。でも、人間はやはりいいことをやっている方がモチベーションが上がる。社会貢献する気持ちを持ちたい。そういう思いでいまはやっているんです」

自らをモチベートするため......けれどもよくよく聞けば、これは吉正が上海に進出するきっかけとなった「全世界の寒いと言われる地域でもちはだを提供したい」という祖父の言葉と同じことを言っている。アプローチは違っても、その思いは脈々と受け継がれている。使い古された言葉だが、「インターネットの世界に国境はない」のだとするならば、二度目の経営危機を乗り越えて、ワシオはそのビジョンにまた一歩近づいたのだ。