新しい後継ぎのかたち

頑張りが報われる世界をつくりたい──縫製一家の放蕩息子が全国の職人たちをつなぎ、その未来を紡ぐ

「何か手伝おうか?」と提案しても親からは拒否された。ならばと必死になって自分にできることを探し、新会社を立ち上げた。厳密には家業の跡を継いだわけではない。だが、市場全体が縮小する中で新たな糸口を見出した、注目すべき「後継ぎ」の成功事例である。

経済産業省の工業統計によると、1991年時点で国内に約6万件あった繊維産業の事業所は、2015年にはその四分の一の約1万5000件まで減った。その結果、かつて縫製工場で働いていた女性の多くは家に入り、培った技術はミシンとともに押入れの奥へ。腕はいまでも錆付いていない。働きたい意欲もある。けれども肝心の働く場所がないのでは致し方ないという、惜しむべき現状があった。

そんな元職人が、自宅にいながら気軽に縫製の仕事に就けるようにと考案されたのが、奈良県にあるベンチャー企業・ヴァレイの提案する「MY HOME ATELIER」という仕組みだ。コレクションラインに出展するデザイナーなどから小ロットの仕事をヴァレイが受注、全国の職人をつなぐネットワークを構築し、縫製仕事を委託する。

立ち上げから3年が経ち、登録している職人は60人を数えるが、すでにリソースが足りなくなるほど仕事が舞い込んでいるという。子育ての合間を縫って小遣い稼ぎをする人もいれば、本業と並行して本格的に取り組む人もいる。リモートに副業、女性活用と、伝統産業でありながらまるで「働き方改革」の先鞭をつけるかのような先進的な取り組みに驚かされる。

この仕組みを考案したヴァレイ代表の谷英希は、祖父母、母と続く縫製工場を営む家に生まれ、姉も日本技能五輪で受賞歴のある腕利きの縫製士という"サラブレッド"。「Makuake」で行った、祖母、母、娘の三代の縫製士が縫ったシャツを選べるというクラウドファンディングプロジェクトも話題になった。

ところが、谷自身はこれまで、ダンサー、俳優、演出家......と、縫製業とは無縁の人生を送ってきた。家業の経営が危ないと聞きつけ、営業として入社して手伝うことを提案するも、他ならぬ母から「嫌だ」と断られる始末。「だったら自分でやるか」と、母の工場の隣に事務所を借り、立ち上げたのがヴァレイだった。

谷はどうして、母に断られてなお縫製業の世界に足を踏み入れたのだろうか。門外漢のはずの谷になぜ、眠った技術を掘り起こす新たなビジネスモデルを考案することができたのか。そこには、一見すると縫製業とはなんの関係もないキャリアを歩んできた谷が、いくつもの挫折を経験する中で募らせた、「頑張りが報われる世界をつくりたい」という思いがあった。

奈良・法隆寺の隣駅からタクシーで15分ほどの立地にある、ヴァレイの事務所兼縫製工場を訪ねた。この場所を拠点にして、「日本の縫製業を次世代につなぐ」こと。それが谷の会社が掲げるビジョンである。

古くて新しい「MY HOME ATELIER」のビジネスモデル

「MY HOME ATELIER」に登録している職人には、個人として自宅で細々とやっている人もいれば、小さな工場単位で契約しているところもある。登録するのに特に資格は必要ないが、新たに契約する際には必ず適性テストを行う。「縫製工場で働いたことのある人でなければ受からないレベル。だから職人の腕は保証できます」と谷。

一方、発注者はコレクションラインに出るようなデザイナーが多い。こうした服は高い技術が必要とされる上、15〜50着ほどの小ロットだから、普通の工場では採算が合わず、なかなか受けられない。得意分野の違うさまざまな職人をネットワークしている「MY HOME ATELIER」であれば、それが可能になるというわけだ。

「とはいえ、工場が内職さんに仕事をアウトソースするやり方自体は、特別目新しいものではありません。違うのは、どこまで分業し、どこをアウトソースするか。うちの場合は、アウトソースするのは縫うところだけ。それ以外は全部、本部でやる。これが大きなポイントなんです」

在宅で仕事をやろうとなった時、一番のネックになるのが、特殊ミシンを持っていないことだという。例えば、シャツにボタンの穴を開けるためには、それ専用のミシンが必要だ。一般家庭でそんな特殊なものを抱えるわけにはいかないから、ボタンを開けるためだけにデパートに持ち込んで、ということになる。それでは手間だし、手取りが減ってしまうから旨味がない。その点、ヴァレイの本部には特殊ミシンや、0.8ミリまで検知できる高性能の検針器などが揃っていて、最終仕上げはすべて本部で行える体制が整っている。

「在宅では難しいもう一つの工程が裁断です。ワンピースを一つ作ろうと思ったら、4メートルほどのスペースを確保し、生地を広げないといけない。一般家庭にそのスペースはないから、その度にテーブルを片付けて広げ、なおかつ2メートルずつ2回に分けて切ったりする。そうすると切るだけで2、3日使うことになり、納期の半分が過ぎてしまうということが容易に起こります。だからうちでは、裁断まではすべて本部で済ませて、内職さんは縫製だけをやればいいという仕組みを整えているんです」

糸から何から、必要なものはすべてパッケージにして送るから、職人は送られてきたものを指示書通りに縫い、チェックリストに従って抜け漏れがないかを確認し、そのまま送り返すだけでいいことになる。

「僕らがやっているのは、クライアントと職人をマッチングする仲介業でも、プラットフォームでもありません。うちはあくまで工場なんです。必要な設備を整え、縫うところだけをアウトソースしている。だからどれだけ外の人に頼っていても、品質はこちらでコントロールできるんですよ」

(上)裁断など、家庭では非効率になる作業に関しては、大きな設備が整う本部の工場で行っている。(中)特殊な糸まで家庭で揃えるのは難しい。そこで本部からプロジェクトごとに使う糸を職人さんの家に配送して、完成した衣服と一緒に返却してもらっている。(下)ボタンの穴を開ける作業など、特殊な機械が必要になる仕上げも、ここで全て行っている。

放蕩息子、母から「NO!」

谷の実家は代々続く縫製工場だ。元々岐阜で営んでいたものを、祖父の代になって現在の奈良県北葛城郡に移転。そのタイミングで母が跡を継いだ。谷はその長男として生まれたが、幼いころから母には「継ぐな」と言われていたという。

「どれくらい稼げる商売なのかは、母自身が一番知っていたということでしょう。それに、一時期イトヘン関係の人からは必ず『中国』という言葉が聞かれたくらいに、生産拠点がどんどん海外に移り、周りの工場がバタバタと閉じていく時代でもありました」

そんなこともあって、谷は自分の道を進んだ。表現したい欲求が強く、高校卒業後はプロのダンサーを目指し、専門学校に。しかし怪我もあり、また身長が低いこともキャリアの壁になって、最初の挫折を味わった。

その後は役者へと方向転換。だが、ここでも才能の限界を感じて、今度は演出家に転身した。個人事業主として関西のテレビドラマ制作などに携わり、しばらくはそこそこうまくいっていたが、次第に業界の景気が悪化。谷自身も20代の後半に差し掛かるタイミングで、改めて身の振り方を考えるようになった。

「ハリウッドで勝負しよう」とも思ったが先立つものがなく、どういうわけか「海外に行きたい」という思いだけが残って、ワーキングホリデーでオーストラリアへ。1年間働き、それなりに金も貯まったが、それも帰ってくるまでにはすべて使い切ってしまった。関空に降り立った時には、実家までの交通費に困るほどの懐具合。そんな20代を過ごして、数年ぶりに奈良へと帰ってきた。

「帰ってきて驚いたのは、僕が行く前となにひとつ変わっていなかったことでした。工場で働いている人の顔ぶれは全員一緒だし、相変わらずFAXでやりとりしている。僕がもういらないからと言って置いていった古いデスクトップパソコンをいまだに使っているし、その使い方もExcelで発注書を作る程度のこと。世の中はこんなにも変わっているのに」

起業した一番の理由は、自分の家族の頑張りを正当に評価してほしいという想いにあった。裕福とまでいかなくとも、ファッションが好きな人たちなので、自分の好きなデザイナーの服くらいは自由に買えるような暮らしをしてほしいという。

母の会社が下請けをしていた関西の大手ユニフォーム会社が潰れ、関連の工場が軒並み潰れるという危機的状況も発生していた。母の会社自体はたまたま超有名デザイナーのライセンス事業が割り振られていたため、発注元が別の会社に移って仕事は続いていたが、こんなラッキーがこの先、二度三度と続くとも思えない。

「大丈夫かなと心配になって『手伝おうか? 俺が営業して仕事を取ってくるよ。出来高契約でいいから』って母に提案したんです。そうしたらなんて言われたと思いますか? 『嫌や』とひとことだけ。あっさり断られてしまって......。参りましたよ」

谷がそう提案したのにはもう一つ、自分自身ののっぴきならない事情もあった。当時付き合っていた女性との間に子供ができ、急遽結婚することが決まっていた。とにかくお金を稼がなければならなかったのだ。

「自信だけはあったので、だったら自分でやろうと思って部屋を借り、始めたのがいまの会社です。とはいえお金はなかったので、結婚のご祝儀という名目で親戚を回ってお金を集め、その一部を立ち上げ資金に回しました。だから実質、ゼロ円起業みたいなものでした」

姉、前川由衣のもとには、指名で全国のデザイナーから注文が届く。取材した日も、ひとり黙々と鮮やかな衣服を縫っていた。

報われない職人の姿にヒントを得た

一方、姉の由衣は、谷とは対照的な人生を送っていた。高校卒業までは母の会社を手伝い、その時点では「ちょっとミシンのできる女の子」でしかなかったが、卒業後に就職した別の縫製会社が教育熱心だったため、そこで腕を磨いた。技能五輪で全国3位に輝くほどの技術を習得。業界内でも「魔法の手を持つ」と言われるほどになっていた。

その後は実家に戻り、再び母の工場を手伝いつつ、個人としては、金もコネもないという駆け出しのデザイナーの依頼に応えたり、知り合いのバレエ教室の衣装を縫ってあげたりという小さな仕事も請け負っていた。谷が現在のビジネスのアイデアを思いついたのは、この姉の置かれた状況がヒントになった。

「そういう知り合いからの仕事を『かわいそうだから』と言って、めちゃくちゃ安い値段で引き受けていたんです。自分だって食うのもギリギリの状況なのに。職人にはそういう控えめな人が多いんですよ。モノを売る人であれば、原価なりなんなりがあるから、それに儲けを上乗せして......っていう発想になる。その点、技術は言ってしまえばタダだから。でも、本来それはおかしな話じゃないですか。プロの技術は、それに見合う報酬を受け取らなければいけないはず。言葉を選ばずに言えば、そういう人の良さにつけ込まれていたんですよ」

しかし、こんな片田舎にいる姉のことを聞きつけて泣きついてくる人がいるということは、世の中には他にもそういう需要があるはずだ。そう考えて「小ロットからでも縫える」を売り文句にインターネットで募集してみたところ、案の定たくさんの仕事の依頼が来た。それをそれまでよりも高い報酬を支払って姉に縫ってもらうところから始め、母や親戚の会社にも少しずつ手伝ってもらうようになった。これが、現在に続く「MY HOME ATELIER」の原型だという。

この「MY HOME ATELIER」のパンフレットに載せている北村さんのように、高い縫製技術を持つ職人さんが、実は全国の家庭に大勢いることがわかったという。現在全国で小規模の町工場も含めて60人くらいのネットワークを築いている。

家族親戚以外で初めて仕事を依頼したのは、同じ奈良県に住む「北村さん」という女性だった。ホームページを作って募集したところすぐに応募があり、飛んでいくと、元々プレタポルテ(高級既製服)を作っていたという凄腕の持ち主だった。それが結婚を機に退職し、外に出て働きたいとは思いつつも訳あって断念。技術を持て余しているような状態だった。

「始めてすぐに北村さんのような方と出会えたのは幸運でした。おかげで『本当にそういう人がいるんだ』と確信を持てましたから。そのあとは徐々に応募してくれる人も増えて、中にはちょっと縫い物が好きくらいの人もいたんですけど、ちゃんと探せば北村さんのような方がいるはずだと思えたからこそ、基準を高く保ち続けることができました」

起業して1年が経つころには、奈良県主催のビジネスモデルコンテストで最優秀賞を受賞。そこから県のバックアップを受けたり、メディアにも取り上げられたりしたことで、設備を入れ、職人を増やして......というサイクルが回るようになっていった。

製造主任を務める鎌田健太郎は、谷のビジョンに共感して転職してきたヴァレイ初期メンバーのひとり。職人さんと蜜にコミュニケーションを取りながら、各案件の管理を務めている。

コミュニケーションの会社

「僕はよく言うんです。『ヴァレイはコミュニケーションの会社だ』って。というのも、これまでだって『これを縫ってほしい』という人が工場を訪れることはあったはずなんですよ。でも、80歳のおじいちゃんおばあちゃんに向かって、パリコレに出すようなわけのわからない複雑な服を持っていって、仕様書には読むのも苦労するような細かい文字で指示が書いてある。これでは拒否反応を示して断るのも無理はないですよ。そこには共通言語がないんですから」

だから谷は、A4だった仕様書をA3に拡大コピーしたり、わかりやすいように線を引きなおしたり、あるいは横文字は使わず職人にもわかる言葉に置き換えたりと、コミュニケーションを円滑にするための細かな努力を欠かさない。それが、「ヴァレイはコミュニケーションの会社である」というゆえんだ。

だが、それが大事だというのはわかりつつも、起業した当初はまったくうまくいかなかったという。なぜなら、谷自身が外の世界からやってきた人間だから、縫製の技術がわからない。つまり、谷と職人との間にも共通言語がなかったのだ。まるでIT企業における企画者とエンジニアの関係のような話だが、そうすると技術者からは相手にされない。当時は縫製士である姉ともしょっちゅう衝突した。

そんなスタート地点から、谷はどうやって共通言語を築いていったのか。当然、勉強はした。結果として資格を取得することはなかったが、そのために必要なテキストを山ほど買いあさり、片っ端からページを繰った。あとは泥臭い飲みニケーション。年上の職人と毎晩のように飲みに行き、たくさん話を聞いて回った。

郵送すれば事足りるところ、箱詰めした商品一式を遠く岡山に住む職人の元まで自ら持っていくことで、「頑張ってる若者感」を演出したりもした。そうすると次第に、口では「お前はわかってないな」と言いつつも、"うまいことやってもらえる"ことが増えた。

縫製業どころか、会社の経営自体が谷にとっては初めての経験だ。そのため、起業した当初は完璧な経営者であらなければならないと思っていた。うまくいきだしたのはむしろ、そうした呪縛から解き離れてからだったと谷は振り返る。

「社長・代表ってなると、イキらなあかんのかなっていうのがあるじゃないですか。それをやめて、『わからへんから助けてくれ』って言うようにしたんですよ。そうしたら姉も『しゃあないなあ。だったら技術系のことは私が全部やるから、あんたはお金のことに専念しいや』って」

姉の技術は谷から見ても一級品だ。その一級品の技術をもった職人でさえ、一人では食うも食えない状況に陥っていた。だが、それは経営者である谷についても同じことが言えた。

「一人じゃ仕事ってできないんですね。スーパーマンが一人おってもダメ。仕事はチームでやるものなんですよ。そのことに気づいてから、いろいろなことがうまく回るようになっていきました。だからいまでも、僕と職人さんたちとのギャップは本当の意味では埋まってないんです。でも、それを埋めてくれるメンバーがいるんですよ」

この日、品質管理の担当者が仕上げていたのは、2019年のパリコレ出展が決まっているブランドのサンプル品。10着くらいの小ロットでの注文は、大きな縫製工場ではなかなか受けてくれない。以前は、デザイナーが自ら内職の人を探す必要があったという。

頑張りが報われる仕組みをつくる

やっていく中では当然、うまくいかないことも山ほどあるが、いまは経営が楽しい、と谷は言う。

「経営というのは才能じゃない。頑張ったら頑張っただけ評価に返ってくる。もちろん、突然の不渡りとか、自分ではどうにもならないこともありますけど、そうなった時のためにどんな準備をしておくかとか、そうなった時にどう対処するかとか。そういうことを含めて考えるのが楽しいと思える自分がいます」

ダンサー、俳優、演出家......歩んできたそれまでのキャリアと現在情熱を注ぐヴァレイの仕事とは、一見するとまったく関係のないもののようにも思える。だが、両者は谷の胸のうちでは、一つのストーリーとしてつながっている。

「ダンスをやっていても役者をやっていても、どんなに頑張ったところで最終的には顔だったり身長だったりという頑張り以前のところが壁になって、報われないと感じる部分がありました。それが嫌だったんです。だから僕の根底にあるのは、頑張った人が報われる世界をつくりたいという思い。そう考えた時にふと思い浮かんだのが、母や姉の存在でした。めちゃくちゃ頑張っている人が、実はすごく身近なところにいたじゃないか、と。彼女たちが報われなくちゃ嘘だよなって思ってるんですよ」

最近になって新たに設定したヴァレイのビジョンは、「日本の縫製業を次世代につなぐ」というものだ。そう言うからにはもちろん、将来的にはその担い手を自前で育てるということも視野に入れている。だが、職人の頑張りが報われる仕組みをつくることそれ自体が、「日本の縫製業を次世代につなぐ」ことに貢献するとも谷は考えている。

「いま地方にいる職人さんにちゃんとした報酬をお渡しすることができれば、その人たちが自分の娘だったり孫娘だったりに教えることで、自然とミシンに触る機会が生まれるかもしれない。その中の一人でも二人でもが縫製を楽しいと感じてくれれば、もしかしたら将来的に、うちで仕事をしてもらえるようにもなるかもしれないじゃないですか。まずはその状態をつくることが僕の使命なんじゃないかと思っているんです」

いま発売準備中だという新ブランド「Kazoku」の試作品を特別に見せてもらった。子供向けのプレゼント用として作ってみたという。近々、またMakuakeで話題のプロジェクトとして注目を集めることになるかもしれない。