新しい後継ぎのかたち

技術革新の荒波を前に、大阪のとある町工場が選んだ戦い方──最高のTシャツ「EIJI」はこうして生まれた

超一級品のコットンを使用して、日本有数の技術を持つ大阪の職人たちが最高の1枚に仕上げる。クラウドファンディングでも話題になったTシャツブランド「EIJI」を立ち上げたのは、ファストファッションの煽りを受けて苦戦を強いられていた縫製会社の跡継ぎだった。

新しいテクノロジーが生まれれば、それがどんな産業であれ、旧テクノロジーの担い手は特権的地位を脅かされる。いつの時代も、技術革新の荒波を前にして生き残るための道はおそらく二つしかない。一つは、新たな技術の波に積極的に乗っかる道。もう一つは、自分の手の内にある旧テクノロジーの価値を改めて問い直す道だ。

大阪市北区中崎町にある創業90年の縫製工場「三恵メリヤス」の次期後継者・三木健が選んだのは、後者の道だった。ファストファッション全盛の、大量生産・大量消費を是とする世の中に抗い、逆に大阪じゅうの匠の技を結集することで、これまでになかったTシャツを世に送り出した。それが同社の新しいフラッグシップモデル「EIJI」である。

日本一の繊維の街である大阪。その90年の歴史を紡ぎ、糸の1本1本に職人の想いと技術を込め、糸から縫製まで一気通貫。昨年7月に"人生で最高の1枚を。"というキャッチコピーでクラウドファンディングを開始すると、131人から約171万円の支援を得ることができた

紡績から縫製までを一気通貫したオール大阪のものづくりにより、「人生で最高の一枚」の看板に恥じない優しい肌触りと軽い着心地を実現。「Makuake」でのクラウドファンディング成功を皮切りに、新たなファン層の開拓に成功しつつある。

最先端を追い続けるレースに終わりはなく、繰り広げられる競争は日を追うごとに苛烈さを増す。そこで生き残れるのはひと握りだ。三木の挑戦は、日本のものづくりが視野に入れるべき「もう一つの戦い方」を示してくれているように見える。

倒れられない理由がある

三恵メリヤスのある中崎町は、古い長屋をリノベーションした隠れ家的なカフェや雑貨店が点在する、若者に人気のエリアだ。大型商業施設の立ち並ぶ梅田のすぐ隣に位置しながら、戦前のレトロな町並みをいまに残し、細い路地を縫うようにして散策するのが楽しい。

「この周辺にはかつてたくさんの縫製工場が並び、東洋のマンチェスターと呼ばれた大阪の繊維産業を支えていた時期がありました。大阪ニット工業組合の会員数は1963年に1326社もありましたが、2016年には68社まで減っています。この一帯にも30年前までは8社の縫製工場があったのですが、近年相次ぎ廃業し、いまやこの地域に残る縫製工場はうちだけになってしまいました」

三代目社長、三木得生の長男として生まれたが、「継いでほしい」と父親から直接言われたことは一度もなかったという。

同社はもともと学校の体操服やスポーツウェアを中心に扱っていたが、三木の父で現社長の得生の代になって自社ブランドを立ち上げたり、カジュアル服の生産を始めたりしたことで経営を改善。ここ数年は横ばいを維持しているという。

工場が潰れて残されるのは、高齢の職人と古いミシンだ。中崎町にはいまもそうした人たちが住んでいる。いち町工場に過ぎない三恵メリヤスが抱える縫製職人はわずかに4人。だから手に余る大型の仕事が入った時には、周辺に住む元職人に手伝ってもらう。彼らはそれで糊口を凌いでいる。三恵メリヤスには簡単には倒れられない理由があるのだ。

そんな中崎町に三木が戻ってきたのは2014年9月と、ごく最近のことだ。高校卒業とともに上京し、東京の大学に進学。在学中に友人と留学ビジネスの会社を興し、以来、家業とは別の道を歩んでいた。

手がけていたビジネスは順調だったし、もう戻ることはないものと思っていた。状況が一変したのは、父が一時入院し、経営に支障が出た時だった。父親のバックアップが必要だということが明らかになった。共同創業者の友人や自分を慕って集ってくれた社員のことを思うと、志半ばで会社を離れるのは心が痛んだが、最終的には「自分が大学に行けたのだって工場のみんなのおかげ。自分のせいで路頭に迷わせることはできない」と跡を継ぐことを決めた。

ベテランの縫製士が働く現場にて。「普段こんなことはしませんが」と笑いながら大きな生地を抱えて、快く撮影に協力してくれた。

繊維産業が抱えるドミノ倒しのリスク

三木が戻ってきた当時、三恵メリヤスの経営はそこまで悪い状態ではなかった。1990年代前半以来のアメリカンカジュアルウェアのブームが来ていたおかげで、同社にも有名ブランドから大型の案件が舞い込んでいた。

「でも、それは未来永劫の安泰を意味するものではありません」。どの業界にも通じる下請け業者の宿命だが、有名ブランドのOEMの仕事をやっていても、町工場の名前は一切表に出ない。いまはたまたま潤っているが、ブームが過ぎれば次の仕事がある保証はなかった。

むしろ水面下では会社存続の危機につながりかねない大きな"事件"が起きていた。長く取引を続けていた染工場が倒産したのだ。跡継ぎとしての三木の最初の仕事は、新たに取引を始める染工場への挨拶回りから始まった。

繊維産業には、紡績-編み-染め-裁断-縫いと続く数珠つなぎの分業体制がある。そのため、取引先の倒産はその前後の工程を担う各社にとって人ごとでは済まされない。実際、かつて中崎町にあった他の縫製工場のいくつかは、取引先の倒産をきっかけとして、ドミノ倒しの形で撤退していた。

中でも特に影響が大きいのが、染工場の動向だ。

「染工場は必要な初期投資が大きく、汚水の問題もあるから新規参入は事実上不可能。だから取引先が倒産したとなれば、既存の工場の中から代わりを探すことになる。とはいえボイラーの温度が少し違うだけでも出来上がりの風合いは変わってしまうので、機械のパーツを取り替えるように簡単にはいきません」

しかもあろうことか、三木が戻ってきて最初に挨拶へ行った新しい取引先も、その3ヵ月後には倒産してしまった。ならばと見つけた次の染工場も、その直後にボイラーの火災に見舞われ、復旧を諦めて撤退。三木は帰ってきてすぐに、この産業がもつ構造上の危うさを身をもって体感することになった。

そんな三木が「何か手を打たなければ」と危機感を強めたのは自然な流れだった。「仮に数珠つなぎのどこかが倒産しても、ブームが過ぎ去っても、残された町工場それぞれに次の仕事が残る仕組みを作ることはできないか」──。こうした切実な問題意識が、三木に「EIJI」を構想させることになる。

オーダーに従って型紙を切る職人さん。お客様の細かな要望に対して、長年の経験を活かした確かな技術で応える。

技術こそが町工場の武器

「とはいえ、町工場が勝負するのに、流行りに乗ってデザインだなんだといっても勝ち目がないことは明らかです。町工場は町工場なりの戦い方をしなければなりません」。それが、培った技術を武器にした戦い方だった。

三恵メリヤスには、祖父の代から勤めていて、社内で「番頭」と呼ばれる専務の尾崎正和がいる。三木は戻ってきてすぐにその尾崎に呼び出された。自社で作ったスウェットの袖口を手に取り、尾崎は三木を諭すようにこう言った。

「このふわふわで縫い目のないリブを見てください。リブっていうのは編み物だから通常は縫い目があるんです。しかも化学繊維でできているのが一般的。だから肌に当たるとチクチクする。うちはコットンを筒状のままふわっと起毛させることで、着る人が気にならないように工夫しています。ここまでこだわれる技術はうちにしかないんですよ」

実は、実際に帰ってくるまでの三木は町工場に対してネガティブなイメージしか持っていなかった。ミヒャエル・エンデの児童文学「モモ」で描かれるがごとく、徹底して時間管理された中で働く工場の労働者は皆、心に余裕がなく、暗い雰囲気が漂っているものだと思っていた。だが、自社のこだわりを滔々と語る尾崎は予想に反して明るかった。

そう言われて見渡してみると、縫い方の一つ、ワッペンの貼り方一つとっても、職人がすごい手間暇をかけ、こだわりを持って作っていることがわかった。町工場には自分が知らないすごい技術がいまも残っている。「これは案外戦えるのでは」と三木は思い始めていた。

旧式のミシンだからこそ、細かな調整ができ、高度な縫製技術を発揮できるという。

世の中は大量生産・大量消費の価値観が支配している。そのための効率という意味では、確かに町工場に勝機はない。中国の大規模工場で使われる最新のミシンは、誰が扱っても均一にまっすぐに縫えるすごい性能。かたや三恵メリヤスにあるのは、もう作られていない古いミシンばかりだ。経験豊富な職人にしか使いこなせない。ゆえにスケールしない。

だが、職人の技術に依存するというのは何も悪いことばかりではない。例えばこだわりの強い消費者のリクエストに一つ一つ応えたり、前述したような技術を駆使して、さまざまな工夫を施したり。これは、効率を優先し、バッファを極限までなくした最新の機械には真似したくても真似できないことだ。

「何事においても効率が優先される現代に対して、かつて人の時間よりもモノが貴重だった時代がありました。そうした時代に育まれた技術には、いたるところにモノを長持ちさせるための工夫がある。町工場には、その技術を持った職人と古い機械がいまなお存在しているんです」。それは縫製においてもそうだし、生地の編み方にも、染め方にしても同じことが言えた。

こうした「いいモノ」を正しく評価し、欲しいと思う人は現代にだっているはずだ。現に三恵メリヤスには、「アメリカのビンテージウェアを古い作り方で再現してほしい」というリクエストが、海を越えて本国アメリカからもやってくる。アメリカには、そのための技術も職人もすでに存在しないのだ。

そんな素晴らしい技術を持ちながら、一方で町工場は致命的に発信するのが苦手で、その価値を世間に伝えきれていなかった。だが、これは逆に言えば、伝えることさえすれば戦える余地は残されているということだ。「それを伝えることこそが自分の役目なのではないか」。三木はそう思うようになった。

一見、普通のTシャツのようだが、一度着てみると全然違う。肌着のように柔らかいのに、肌が透けてしまう心配もない。

「究極の一枚」にこだわったワケ

技術の素晴らしさをどれだけ声高に叫んでみても、それだけでは世間には届かない。世の中にその価値を伝えるためには、目に見える形にする必要があった。

そこで生まれたのが大阪じゅうの技術の粋を集めた「EIJI」......というわけなのだが、「潰れそうになった工場が一致団結してフラッグシップを作る」というのは、よくある話といえばよくある話。そしてその多くは失敗に終わる。こうした有象無象のプロジェクトと「EIJI」とでは、どこが違ったのか。

三木は、こうしたプロジェクトが失敗するのには二つのパターンがあるという。

一つは「みんなで団結して......」とやった結果、責任の所在が曖昧になり、「この金はどこが出すのか?」「この仕事はどちらがすべき?」などとお互いに牽制しあって失敗するパターンだ。だから三木は、多くの工場に協力を呼びかけ、最終的にはそのそれぞれに仕事が行くような仕組みづくりを目指しつつも、EIJIはあくまで三恵メリヤスのプロジェクトというスタンスにこだわった。金も出すし、発信も責任を持って行う。その代わりイニシアチブもうちが握る、というように。

もう一つの失敗パターンは、なんとなく自分たちがいいと思うものを作ってしまうこと。「これだけのモノがあふれる時代に、なんとなくいい素材を使って、なんとなく良さそうなモノを作っただけでは絶対に勝てない」と三木は言う。出来上がったTシャツが本当に「最高の一枚」であると言い切るには、そう言い切れるだけの裏付けが必要ということだ。

そのため三木は、たった一枚のTシャツを作るのに、あらゆる素材、あらゆる編み方、あらゆる染め方を試して「最高」と言い切れる組み合わせを探った。その結果選んだのが、アルティメイトピマと呼ばれるアメリカ・ニューメキシコ産のオーガニックコットンを素材とし、80番手×40ゲージという「常識外」の編み方をする現在の製法だった。

世界のオーガニックコットンの年間生産量の内、僅か0.006%というオーガニックコットンの中でも極めて希少な「アルティメイトピマ」を使用。アメリカのニューメキシコ州にあるたったひとつの契約農場でしか作られていないという。

アルティメイトピマは、繊維長が約39mmとオーガニックコットンの中では極めて長く、強度も兼ね備えた超長綿の一種。繊維の長さは長ければ長いほどなめらかな肌触りに仕上がるし、アルティメイトピマを使用した製品は使い込むほどに肌に馴染むから、「末永く使ってもらえるように」という「EIJI」のコンセプトにピッタリの素材と言えた。

一方、糸の太さは「番手」と言われる数字で表現されるが、通常Tシャツに使用されるのはおよそ30番手ほどの太さ。そこをEIJIでは、肌触りを追求して80番手という非常に細い糸を選んでいる。だが、この細い糸を通常のやり方で編んだのではスケスケのTシャツが出来上がってしまう。平たくいえば、EIJIはそれを40ゲージという、通常ではありえないほどの密度で編み込むことで解決しているのだ。

80番手×40ゲージという最高の組み合わせを見つけるまでには、約2年の歳月をかけ、あらゆる太さと密度の組み合わせを試した。「すべて試し尽くした。だからこそ、これ以上のものは存在しないと自信を持って言い切れるんです」。当然、必要な資金は莫大になり、当時三木が使える金額の限度をはるかに超えていたが、大阪府の助成金に運よく採択されたことでなんとか賄うことができた。

ALL MADE IN JAPANだとしても、実際にどこの工場で作られたのかまでは明らかになっていないことが多い。EIJIは、ブランドのプロモーション動画にも、制作工程に関わる企業の名前を出している。

若い後継者が増えればもっと戦える

三木がもともと業界内の人間だったら、こんな常識外の作り方は提案できなかったかもしれない。当初は他の町工場からも正気を疑われたが、最終的には「大阪から最高のものを作りたい。そのために最高の技術を提供してほしい」という三木の思いを粋に感じて、採算度外視で協力してくれた。「EIJI」のタグには、協力してくれたすべての町工場の名前が記されている。

「EIJI」のプロジェクトは幸いにも成功を収め、当初の思惑通り、協力してくれた町工場にはその技術を見込んだ指名の仕事が入り始めているという。「みなさんの心意気になんとか応えることができて本当に良かった」と胸をなでおろす三木。大きな博打に勝ったのだ。

いまや町工場であっても、自ら発信することで消費者とダイレクトにつながれる時代になった。武器とすべき技術はまだギリギリ残っている。多くの町工場は倒れたが、逆にいえば、いまなお残っているのはどこも確かな実力を持ったところばかりだ。なおかつ、幸か不幸かシュリンクしきってしまったぶん、業界全体で一致団結して立ち向かおうという雰囲気もある。「戦えるだけの土壌はある」と三木は力を込める。

Makuakeの2回目は1回目を凌ぐほど話題になった。ウールの仕入先が潰れてしまうということで、その最後の原料をすべて買い取り、「着数限定EIJI ウールT」としてクラウドファンディングを行ったところ、550万円以上の支援が集まった

足りないとすれば、あとは技術を引き継ぐ若い後継者か。業界の青年部会などに顔を出しても、そこにいる経営者は皆年上で、同世代は数えるほどしかいないという。その現状が、三木からすればもどかしい。

「東京の展示会に『EIJI』を持っていくと、次々にクリエイターだったり同業者だったりからコラボしないかと声をかけられるんです。でも大阪には現状、まだそれがない。それは僕自身の信用が足りないということでもあるんでしょうけど、でも、自分のような若い経営者が増えれば、もっともっといろんな面白いことだってできるはずなんですよ」

町工場の反撃の旗印「EIJI」は、そうした未来の同志に向けたメッセージでもある。