新しい後継ぎのかたち

中川政七商店:名経営者の後を継いだ千石あや、創業302年目の挑戦

「日本の工芸を元気にする!」をビジョンに掲げ、GINZA SIXや東京ミッドタウンなど、全国50店舗以上に直営店を展開する中川政七商店に、初めて創業家以外の社長が誕生した。元社長秘書。13代中川政七の側でそのカリスマ的な経営手腕を見てきた新社長は、いま何を守り、何を変えようとしているのか。

町へ出て、ぶらぶらとお店を見てまわる。ふと、開放的で清潔感のある店構えに目がとまる。あ、素敵。ちょっと入ってみよう。

お、天然素材のアームカバーがある。欲しかったけど化繊のものばかりで気に入るものがなかったんだった。わあ、こっちの猫はとってもキュート。九谷焼の豆皿、猫好きの彼女が喜びそう。

いくつかの心惹かれる出合いがあって、お店の看板をふと見ると「中川政七商店」と書かれている。そんな経験を何度か繰り返し、その古風な屋号は、すみずみまで気配りの行き届いた暮らしの道具が並ぶ、安心できるお店として記憶される。

中川政七商店を代表する人気の商品。さまざまな日用品が揃っている。上段真ん中の「花ふきん」は、奈良県の特産品、蚊帳生地を使用。 

中川政七商店は奈良で300年以上続く老舗だが、ブランドとしての「中川政七商店」の誕生はぐっと新しく、2010年のことだ。テキスタイルブランド「遊 中川」と、日本の土産ものを扱うブランド「日本市」に加えて、機能的で美しい暮らしの道具を扱うブランドとして「中川政七商店」は創設された。私たちが抱く「中川政七商店」のイメージの多くは、この3本柱が確立されて以降のものである。

1985年、オープン当時の「遊 中川 本店」。十二代中川巌雄が、麻の良さを日常で感じてもらおうと、麻生地の小物を扱う同店を立ち上げた。 

卸から、工芸をベースとした製造小売り(SPA)へ。改革を行ったのは、2008年に社長に就任した中川淳(2016年に十三代 中川政七を襲名)だ。中川は2015年に「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」のファイナリストに選ばれている。すなわち、一連の改革は「第二の創業」と呼ぶにふさわしいものだった。

現在の「遊 中川 本店」。 ロゴ(写真右奥)のリニューアルは、クリエイティブディレクターの水野学が担当。

そして今年3月、中川政七商店は、中川が会長となり、後継社長に千石あやが就任することを発表した。これは、300年続く老舗の代替わりであると同時に、新興企業が直面する成長のための社長交代でもあった。

初の創業家以外の社長となった千石は、この事業継承をどうとらえ、何を受け継いでいこうとしているのだろうか。

社長を継ぐなんて「あり得ない」

取材前は、ズバッと的確な言葉で切り込んでくるような女性を取材するものと思っていた。しかし「こんにちは〜」と笑顔であらわれた千石は、そのルックス、声、所作のすべてが驚くほど柔らく穏やかで、相手に心地良さを感じさせる女性だった。

「次の代は中川じゃない人にするということは4、5年前から言ってたんです。だから、そうなんだろうなとは思っていましたが、まさか自分だとは思ってもみませんでした」

千石が、中川に呼び出されたのは昨年の夏。千石は入社8年目。製品管理、商品企画、「遊 中川」ブランドマネージャーなどを経て、ブランドマネジメント室室長の職に就いていた。入社4年目には社内公募で社長秘書に立候補。経営者としての中川を近くで見てきた。

「(中川から)『もうわかってると思うけど』と言われたんですが、何もわかってなくて。冗談だと思って笑ってしまったぐらいです」

呼び出しの理由は、十四代目として社長に就任して欲しいという打診だった。

「考えた結果、千石さんやと思う」。中川の言葉に、千石は「あり得ない」と思った。「受けかねます」と伝えると、中川は「この場で『ええよ』と言われてもびっくりするし、しばらく考えて」と言った。

「あり得ない」と思った理由は、自分は経営者タイプではないと思っていたからだ。では、千石さんが思う経営者タイプとは? と聞くと、間髪入れずこう答えた。

「中川です」

側で見てきた十三代の決断力

時は少しさかのぼり、千石が入社する前後のことだ。中川は、新しいかたちの展示会の開発に取り組んでいた。中小メーカーにとって、展示会は販路開拓のための重要な場所だ。しかし従来の展示会運営会社が主催する展示会や見本市では、手応えを感じることができなかった。来場者層とのミスマッチや、運営会社の出展者への理解のなさ。なにより、出展料に見合う売り上げが立たないのでは、出展する意味がなかった。

そこで中川は、中川政七商店単独で展示会を開いた。そこに中川からコンサルティングを受けた(各地の)の工芸メーカーがひとつ、またひとつと合流。2011年、工芸メーカーが自ら主導する合同展示会「大日本市」が立ち上がった。

2018年8月に行われた大日本市。全国各地から工芸産地の未来を背負う気鋭の会社が集まって出展する。

中川の方針はこうだ。出展料はとらない。代わりに流通サポートの費用として売り上げの一定の割合をお支払いいただく。取り引きが発生しなければ主催者にもお金が入らない。リスクを分け合うことで、出展者のビジネスにコミットするやり方だ。

中川の著書『日本の工芸を元気にする!』には、立ち上げのときに中川が書いた「大日本市宣言」が収録されている。そこにこんな一節がある。

「受け身でものをつくる職人ではなく、
 自らの意思で努力する工房でありたい。」

中川政七商店 十三代 中川政七『日本の工芸を元気にする!』(東洋経済新報社)

そして、「大日本市」の趣旨に賛同した大手百貨店から出店のオファーが届く。そのときの心境を中川は同書でこう綴っている。「(さまざまなメーカーが目標にする大手百貨店に)自分たちの売り場を持つなんて、少し前まで地方の小さな工芸メーカーにすぎなかったコンサル卒業組にしてみれば夢のまた夢。地区予選の一回戦で敗退していた弱小チームがいきなり甲子園に出場するようなものである」

しかし1年後、「中川政七商店」の出店計画をめぐって両者の間にすれ違いが生じた。何度か話し合いの場が設けられ、慰留もされたが、最終的に中川はその大手百貨店を退店することを決断した。

「私、そのとき秘書だったので、隣にいたんですよ」

千石にとってあの場面は「経営者の心意気」を肌で感じた瞬間だった。

「店舗は売り上げも出ていました。利益が出ている店を手放すのはなかなかできない決断ですし、なにより『大日本市』のメンバー全員の商品を扱うところだったので、みんなもすごく喜んでいたんですね。実際中川は、最後の話し合いの場に行く前、『止めてね』と言ってましたから。ちゃんと打ち合わせもしたんですよ。隣に座るだろうからここ(太腿のあたり)にすっと触れるのが止めるの合図、って。でも止める間もなく言いましたね。『退店させていただきます。お世話になりました』って。まじか!と思いました」

緊迫感漂う話し合いシーンを思い出しながら、「はははっ」と大きく笑う姿を見ていると、十三代社長の中川と秘書時代の千石は、お互いを信頼し合う息の合ったコンビだったことが伝わってくる。

一般的に小売市場では、大手流通のほうがメーカーより立場が強いことが多い。しかもその百貨店は年間2500万人の来店客数を誇る。多少の理不尽は我慢してその場所を守ろうと考えても不思議ではない。しかし中川は「対等であること」を重視した。千石はこう言う。

「あのときに私は『受注産業脳』から『メーカー脳』に切り替わったと思います。ああ、こういうことか、と。自分たちがどうありたいかを決めていくってこういうことなんだ、と思った」

念のために書き添えるが、同百貨店とはその後、友好な関係を築いている。しかし中川ははじめから「対等なんやで。出させてもらってるわけじゃないんやで」と言っていた。その言葉が腹に落ちた。同時に、その決断をするのが経営者なんだと思った。

「中川もあの場で決めたと思いますからね」

千石さんが社長に就任して半年、そのような場面はめぐってきましたか?と聞いてみる。

「まだめぐってきてないです。あんなの半年に1回ペースであったら大変です。もし自分だったら......と考えると、今の胆力ではまだまだだなって思います。『いったん持ち帰らせていただきます』って言っちゃうと思う。けど、持ち帰ってももう聞く人はいないんですよね」

その言葉にトップの自覚と孤独がにじむ。

トップダウンからチームワークへ

自分はとてもあんなふうにはできない。あり得ない。そう言って社長の話を断ろうとした千石だったが、中川はこう言った。「ちゃうねんちゃうねん、俺のコピーが欲しいわけじゃないねん」

中川は、工芸の世界で初めてSPA業態を確立し、15年間で店舗数を3から51へ、売り上げを4億円から52億円へと拡大させた。その足跡を、中川の著書や、インタビューに答えた記事などでたどっていくと、ひとつひとつ着実に布石が打たれていることがわかる。例えば、現在中川政七商店の事業の柱のひとつとなっている中小工芸メーカーへの経営コンサルティングは、2008年に出版した『奈良の小さな会社が表参道ヒルズに店を出すまでの道のり』にすでにはっきりと打ち出されている。

「同業界非競合の他社を手伝う一つの手段として、コンサルティングを考えている」 「世間でいうコンサルティング会社にお金を払うほどの規模も余裕もないメーカーや工房を対象にしたい」

中川は2002年に富士通を辞め、家業の中川政七商店に入社した。中小工芸メーカーが生きていくためには、大手流通から品揃えと価格の決定権を取り戻し、自ら小売り業に乗り出すしかない。日本全国で多くの中小工芸メーカーが苦境に陥り、廃業に追い込まれる状況をなんとかしなければ、自らの生きる道もない。これらの現状認識は、ひとつのビジョンへと収斂する。

「日本の工芸を元気にする!」

後ろの大きな本棚には、日本全国の伝統工芸に関する歴史本や写真集、雑誌などの書物がずらりと並ぶ。

中川が会社を成長させていく様を間近で見てきた千石はこう言う。

「ビジョンはものすごい『発明』だったと思うんですよ。そのビジョンのもとに人が集まり始めた。中川の最もすごいところは徹底したロジカルさです。普通はひらめきで終わらせるようなことも、すべて説明できる。ただ、中川がロジックによって導き出したあるべき姿の根底には、『日本の工芸を元気にする!』というビジョンが必ずある。だから、そのロジックが完成した時点でやったほうがいいことなんです。できるかどうかは別にして」

15年間で売り上げは10倍以上になった。これほどの急成長に「成長痛」がなかったとは考えづらい。中川のリーダーシップを、千石は「(中川が考えることを)みんなが必死のパッチで実現する」と表現した。それによって伸びてきたし、やれることが増えたのはたしかだ。しかし、一人の強力なリーダーが引っ張っていくやり方では成長に限界があるのではないか。そういう思いが今回の社長交代の発端だったと千石は言う。

「カリスマ経営者からカリスマ経営者へのバトンタッチだったら『自分のコピー』を期待したかもしれません。でも今回は、トップダウンからチームワークへが大きなキーワードでした。いい企業文化はトップダウンでは作れない。一人が引っ張るのではなく、個々の戦闘能力を上げるんだ、みんなで早く遠くへ行くんだということです」

ぶれないビジョンがあるから迷わない

千石は自らに期待されていることを「バランスのよい判断」と分析するが、同時に「スピードを落としたくない」と言う。

「なるべく早く100億円を目指したい。そう言ったら中川に『え、数字? それテンション上がるん?』と言われたんですけど。ははは。でも、それぐらい(売り上げが)あると諦めなくていいんじゃないかと思うんです。いろんなことを」

例えば、産地の魅力を味わえるような観光ツアーや、工芸に特化したリクルーティングのプラットホームなど新事業がいくつかある。「日本の工芸を元気にする!」というビジョンのためにはやったほうがいいのは間違いないが、収益化のめどがついていないものもある。企業基盤がしっかりしていなければ挑戦できない。諦めないために、数字が必要なのだ。

「会社全体の利益がちゃんと出てないとテンションも下がりますしね。みんながこの会社にいて楽しいと思わないと続かないと思うので。中川もよく言ってました。『俺の仕事は飽きさせないことやで』って。なのでうち、仕事のご褒美は仕事なんです」

入社したばかりの頃、自分に嘘をつかずに仕事ができることが嬉しかった、という千石。自分たちが本当に良いと思うものだけをゼロからつくれることに大きな価値を感じている。

「なぜ(中川政七商店の)みんながものづくりに真摯に取り組めるかというと、ビジョンがあるからだと思うんです。商品企画や営業、生産管理など働く場所は他にもたくさんあります。なのになぜ、わざわざ他の会社をやめて、こんな奈良の片田舎に引っ越してくるかというと、なんらかのかたちでビジョンに共鳴しているからだと思います。みんな、ここで何かしたいと思ってきている」

それは、30代なかばで転職した千石自身の思いでもあるのだろう。この厳しくもやりがいのある職場でこれからも働いていく。お客様によいものを届け、一緒にものづくりをする仲間を増やしていく。そう思っていたはずだ。

奈良市にある中川政七商店の本社。コンセプトは、暮らすように仕事する「未来の町屋」。2010年 グッドデザイン賞 中小企業庁長官賞を受賞した。Photo by(有)フジタ写真工房

──そんな中での社長就任のオファーは、千石さんからしたら寝耳に水というか、普通に楽しくこの会社でみんなと一緒にやっていきたいと思っていたのに中川さんはなんてことを、ですよね。

「ふふふ。そうですね。でもビジョンがありましたから。『ビジョンも変えていこうと思ってんねん、まかすわ』だったら『お断りします』ってなったと思います。『日本の工芸を元気にする!』というビジョンと、『こころば』という心構えの10カ条、それは変えない。一方で、うちの良さは、変わることをいとわない軽やかさにもあると思っています。そうでなければ、300年前に創業した奈良晒の問屋さんがここまで続くことはなかったと思う」

千石の頭の中には、すでにいくつかの未来予想図が描かれている。それは例えば、日本と同じように、後継者がいなくなり工芸が衰退しているアジアの国々の人々と、ともにものづくりをしている姿だ。中国には約2000の工芸があると言われているが、ものすごい勢いでなくなっているという。

「うちでつくっている暮らしの道具のようなものは、機能だけを考えれば100円ショップにもあったりするんです。何が違うのか、どういう工程で、何をいいと思ってそれを作っているのかを、もっと丁寧にお伝えしていきたいと思っています。私たちは技術の進歩や効率の追求を否定しているわけではありません。だけど、なくなったら惜しいと思うものがある。一人の人間がコツコツとつくった手仕事を『なんかいいな』と思う。日本の工芸を元気にするために、まずはいちメーカーとして、自分たちのものづくりに真摯に向き合っていきたいと思っています」