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「知ってるつもり」から驚きは生まれない──要約『知ってるつもり 無知の科学』

思っていたほど実は知らないという「知識の錯覚」を自覚すること。自分だけの知識に頼らず、「知識のコミュニティ」に参加して学ぶこと。これまで見過ごしていたことに「驚く」機会が増えるかもしれない。そんな知的好奇心を刺激する本である。

人間は、無知だからこそ出会いに価値を置く──BNL編集部の選定理由

生きる上で役に立たないことは基本的に深追いしない、という習性が人間にはあるという。

たしかに、いちいちファスナーの仕組みが気になって手を止めていたら、服を着るという何気ない日常の動作でさえ億劫になるだろう。トイレの水が流れる仕組みまで気になってしまったら生きていくのも大変に違いない。でもなぜか、ほとんどの人は特段気にすることもなく、ずっとあたり前のように使用している。

わたしたちは自分で思っている以上に、知性を人に頼って生きている。いちから身の回りのものを作れる人なんてほとんどいない。どんな素材でできているのか。どこで手に入るのか。どう組み立てればいいのか。何一つ把握していないことに気づくのは、それらが故障した時くらいである。

逆にサービス提供側から見れば、その仕組みを把握していることで新たなビジネスチャンスが生まれる。ファスナーやトイレの仕組みを転用すれば、何か驚きの新商品だって発明できるかもしれない。

「知ってるつもり」の方が生きていくのは楽だが「驚き」は得られない。驚きがなければ、新たな気づきは生まれない。ただし、物事をひとりで考えるのはどうしても限界がある、というのが本書の必読ポイントである。その分野に詳しい人は必ずどこかにいるはずだから、「知識のコミュニティ」への参加を勧めている。

Eightのつながりだって、立派な「知識のコミュニティ」である。名刺交換をしただけで「知ってるつもり」になっている人は、きっとたくさんいるはずだ。一見、時間の無駄に思えるかもしれないが、久しぶりに連絡して会いに行ってみよう。その出会いが、世界を変えていくきっかけになるかもしれないと、現代認知科学は証明しているのだから。

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要約者レビュー

本書の著者は、ともに認知科学の研究者である。1950年に誕生した認知科学は、工学、心理学、哲学などの学際的研究を通じて、人間の知性の働きを解明しようとしてきた。しかしそうした研究を通じて明らかになったのは、個々人の知性のすばらしさというより、むしろその限界であったと著者らは指摘する。

「人間の知性は天才的であると同時に哀れをもよおすほど粗末で、聡明であると同時に愚かである」。人間は火の使い方を覚え、民主政治を生み出し、原子核を発見し、月面に着陸した。その一方で、驚くほどの思いあがりや無謀さを晒すことも少なくない。

なぜ人間はほれぼれするような知性と、がっかりするような無知を併せ持っているのか。あるいはなぜ個人としては限られた理解しか持ちあわせていないのに、種としてこれほどの偉業を成し遂げてこられたのか。本書はこうした疑問に答えていく。

なかでも重要な問いは、知性はどこにあるのかというものであろう。私たちは「知性は個人の脳のなかにある」と考えがちだ。しかし本書の見解は別なところにある。知性は私たちの身体に、環境に、そしてコミュニティに属するというのだ。私たちは状況に応じてそれらを参照し、活用しているにすぎない。

本書を開けば「知性」のイメージが、ガラリと変わるだろう。


本書の要点

── 要点1 ── 「無知」は歓迎すべきものではないが、かならずしも悲嘆すべきものでもない。世界はあまりにも複雑で、その全体像は個人の理解を超える。無知は人間にとって自然な状態だ。

── 要点2 ── それにもかかわらず私たちは、多くのことを知っている、理解しているという「知識の錯覚」に陥っている。

── 要点3 ── 知性は個人に属していると思われているが、じつのところ人は「知識のコミュニティ」のなかに生きている。知識のコミュニティとはなにか、そこで私たちはどのように振る舞うべきかが、本書では考察される。


知識の錯覚

Photo: "Railway" by Sergio Boscaino (CC BY 2.0)

無知の正体

私たちは自分たちが思っているほど、物事を理解していない。

このことを示す簡単な実験がある。トイレやファスナーなど日々当たり前のように使っているモノについて、まず被験者に「その仕組みをどれだけ理解しているか」を答えさせる。この時点での回答は「理解している」というものが多い。だが具体的にどのような仕組みで動くのか説明を求めると、たいていの人はほとんど何も語れない。知っていると思っているのに、実はそれほど知らないのだ。

とはいえ無知そのものが欠点というわけではない。あまりにも複雑な世界を生きていくため、私たちはこうした戦略・作法を身につけざるをえなかった。しかし問題は、私たちは世界を理解したつもりで生きており、それがときとしてさまざまな錯誤や災厄をもたらすということだ。

私たちは基本的に「わかっていないことがわかっていない」。これが無知の正体である。このことは株式市場や軍事戦略といった人間世界の出来事から、気象や地震といった自然界の出来事についてまで、同じようにいえる。

思考の目的は行動である

認知科学は「人間の知性の働きはどうなっているのか」、「その目的は何なのか」を解明しようとする学問だ。

人間の知性は、新たな状況下での意思決定にもっとも役立つ情報の抽出を、最優先に進化してきた。人間の脳はしばしばコンピュータのように例えられるが、実際は大量の情報を保持する記憶装置とも、その大量の情報を演算処理するように設計されたコンピュータとも根本的に異なっている。

そもそも私たちはなぜ思考するのか。その目的は「行動」にある。この目的を達成するために必要なことを、より的確にできるようになるため脳は進化してきた。そして私たちにとっての最適な行動とは、複雑な世界の変化する状況に、もっともうまく適合することなのだ。

必要な情報のみを残す脳の働き

世界の仕組みについての個人の知識は、驚くほど限られている。なぜなら必要な情報だけ抽出して、それ以外をすべて除去するからだ。新たな状況で行動するためには、具体的な詳細情報ではなく、世界がどのような仕組みで働くのか、そのおおもとにある規則性だけを理解しておけば事足りるのである。

これは脳の持つ記憶媒体としてのキャパシティからも裏づけることができる。私たちが通常使っているノートパソコンには、250から500ギガバイトのメモリがついている。一方で人間の脳の情報量は、0.5から1ギガバイト程度だという。このことからも「選択した情報以外は消去する」ということが、私たちの脳にとって重要な機能だということがわかる。

【必読ポイント】 知識のコミュニティ

Photo: "Local governments gather in Victoria for UBCM 2016" by Province of British Columbia (CC BY-NC-ND 2.0)

知識は脳のなかにあるだけではない

適切な「行動」を選択するために、人間は知的能力を育んできた。だが個々人の頭のなかにある限られた知識だけでは、人間がこれまで成し遂げてきた数々の成果を説明することはできない。

私たちは知識に囲まれて生きている──ここに人間の偉業を説明するカギがある。知識は脳のなかにあるだけではない。私たちがつくるモノ、身体や労働環境、そして他の人々のなかにある。私たちはいわば「知識のコミュニティ(knowledge community)」に生きているのだ。

こうした知識のコミュニティのあり方は、「認知的分業」として知られている。文明が誕生した頃から、人間は集団のなかで、さまざまな専門能力を育ててきたといえる。

頭と外界に境界はない

知識のコミュニティに参加するためには──すなわち自分の頭に知識の一部しか存在しない世界で生きていくためには──自分の頭のなかにあるものと外にあるものの境界がシームレス(縫い目のない連続した状態)でなければならない。

知性は自らの脳に入っている情報と外部環境に存在する情報を、連続体として扱うような設計になっている。自分が知っている以上に世界を知っているという「知識の錯覚」は、こうした進化のプロセスが私たちの知性にもたらしたものだ。

知性は個体の脳のなかではなく、集団的頭脳のなかに宿っている。個人は生きていくために他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々のなかに蓄積された知識を頼る。そうした知識をすべて足し合わせると、人間の思考はまさに感嘆すべきものになる。ただしそれはコミュニティの産物であり、特定の個人のものではない。

志向性の共有

技術や知識を共有するのは、創造するよりもはるかに高度なことだ。人間は他者の存在や、他者が達成しようとしていることを認識し、協力することができる。同じことに関心を持ち、目標を共有することができる。認知科学の用語を使えば、私たちは「志向性(intentionality)」を共有している。このような協力形態は他の動物には見られない。

知識のコミュニティに参加するためには、この「志向性を共有する能力」が必要だ。それは他者と関心や目標を共有し、共通理解を確立する能力であり、他者と意図を共有する能力である。

ちなみに人工知能(AI)の進歩によって、人間を超える超絶知能(スーパーインテリジェンス)が誕生するといわれるが、そういったものの到来はとても起こりえないだろう。なぜならコンピュータにこの「志向性を共有する能力」を持たせるメドがまったく見えないからだ。たしかにコンピュータは人間の指示を理解できる。しかし他の人間の関心や目標、意図に共感することはないし、それによって自らを変える力も持ちあわせていない。

知識コミュニティの課題と可能性

Photo: "Tea Party tax day protest 2010" by Fibonacci Blue (CC BY 2.0)

コミュニティの危険性

当然のことながら、知識コミュニティにはリスクもある。その代表例が社会心理学者のアービング・ジャニスが「グループシンク(集団浅慮)」と呼んだ現象だ。これは同じような考えを持つ人々が議論をすると、グループの意見が先鋭化することを指す。とくに社会的、政治的な問題になると、グループシンクは深刻な影響をもたらす。

著者らが例にあげるのは、2010年にアメリカで成立した「医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)」をめぐって勃発した、世論を二分する激しい論争だ。多くの国民が賛成か反対か明確に答えたにもかかわらず、アンケート調査によると、半数近くの人々がこの法案を巡る背景(司法の判断)を理解していなかった。このように世論は、問題に対する国民の理解度からは説明できないほど極端になることもある。

誰もが自らの無知を理解できないのに、コミュニティのメンバーに正しいという感覚を与えつづけてしまうと、きわめて危険な社会思想を生み出すおそれがある。20世紀を特徴づけるのは、思想的純潔という名の巨悪だ。スターリンによる粛清、ナチス、文化大革命。例として極端に感じられるかもしれないが、それが歴史的事実であることも確かである。

ナッジ(そっと押す)

こうしたコミュニティの弊害は、インターネットやソーシャルメディアの普及によって、一段と強まることが懸念されている。同じ価値観の仲間同士で固まり、異なる意見は排除されがちになるからだ。

そうした課題を克服するひとつの道筋として、シカゴ大学のリチャード・セイラー教授らが提唱する「リバタリアン・パターナリズム(緩やかな介入主義)」という思想がある。この思想の特徴は「人間は必ずしも合理的判断をするわけではない」という前提にもとづいていることだ。合理的選択をさせるには個人に訴えるのではなく、「ナッジ(そっと押す)」する、つまり自然とそうさせるよう環境をデザインしたほうがいい。たとえば「全員がある種の年金制度に入るのが望ましい」という場合なら、希望者に「オプトイン(制度に加入する意思表示)」させるのではなく、希望しない人が「オプトアウト(加入しない意思表示)」するという仕組みをとるべきだ。

また私たち一人ひとりが自らの無知への自覚を高めることも重要である。著者らが本書をまとめた意図は、そもそもそこにあるのだから。

Photo: "untitled" by Alfredo Castilla (CC BY-SA 2.0)

賢さの定義が変わる

知識はコミュニティのなかにあるという気づきは「賢さ」に対して、これまでとはまったく別のとらえ方をもたらす。

賢さを知能指数(IQ)という個人単位で測るのではなく、個人がどれだけコミュニティに貢献したかという尺度で考えてみよう。すると知能はもはや個人の推論能力や、問題解決能力ではなくなる。むしろ集団の推論や問題解決プロセスに貢献する能力ということになるはずだ。

教育の目的は旧来、子供たちに一人でモノを考えるための知識と能力を与えること、つまり知的独立であると考えられてきた。しかしそれでは不完全である。学習とは単に新たな知識や能力を身につけることではない。そこには他者と協力する方法を学ぶこと、そして自分に提供できる知識や、他者から埋めてもらうべき知識がなにかを知ることも含まれていなければならない。

「賢さ」の定義が変われば、教育の定義も変わる。そしてその先に私たちの明るい未来、つまり希望があるのである。


一読のすすめ

原著の副題に注目したい。そこには"Why We Never Think Alone"とある。この「なぜ私たちは一人で考えられないのか」という言葉に本書の本質が隠れている。一人では考えられないからこそ、これまで人類は大きなことを成し遂げてきた。これからもコミュニティの知がしっかり機能すれば、さまざまな困難を乗り越えていくのではないか。そのような希望を抱かせる内容となっている。

知的好奇心があれば読者を選ばない本だと思うが、あえて絞りこむなら教育や人材育成に取り組んでいる方に、とりわけ強くおすすめしたい。

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