BNL History

任天堂:驚きを生んだ出会いの歴史

中小企業から大企業へ、突破のきっかけとなった出会いをテーマに、これまでBNL Historyではヤマハとオムロンと伊藤園を取り上げてきた。任天堂にも、その発展を語るうえで欠かせない運命的な出会いがいくつもあった。なかでも特に大きな影響を与えた4つを紹介する。

「ソフト体質」でなければ驚きは生まれない

任天堂のプロダクトとして真っ先に思い浮かぶのは、これまでに遊んだことのあるゲーム機ではないだろうか。

2017年までに発売された主なゲーム機を紹介する動画。

しかし、任天堂の「驚き」の源泉は、実はハードウェアとしてのゲーム機ではなく、ゲームソフトにある。2009年1月の決算説明会で、当時社長を務めていた岩田聡はこう語った。

「大爆発するソフトがあるから、ハードを買ってまで遊びたいと考えてくださるお客さんが次々と現れ、その人が周りの人を次々と誘いながら、モノというのは広がっていくわけです。それが起きたから、DS現象、Wii現象があった。ですから、そういうものを、次も生みだす努力をしなければならない」

1980年から52年間、3代目の社長を務め、中興の祖として知られる山内溥も、4代目のポストを岩田に継いだ理由のひとつとして、「ソフト体質」な思考を持っているからだと語っている。取材をしたジャーナリストの井上理は、山内の考え方を次のように解説する。

山内にとって産業は、ハードとソフトの2つに大別される。自動車、鉄鋼、造船、家電......。これらのモノづくりの企業は、言うまでもなくハードの会社だと言う。そして、それらの会社は、我々人間が生活をより良く、長く保持するために必要なモノを作る会社なのだと。

モノづくり=ハード=必需品。このカテゴリーにいる会社は、より良いモノを安く作ることが至上命題である。

死力を尽くして技術開発に邁進する一方、労働力の安い土地を求めるなどしながら、より効率的な大量生産に取り組んで来たからこそ、我々の生活はより便利に、より豊かになった。

そうなると、今度はいかに楽しく暮らすか、いかに余暇を過ごすか、いかに味気ない生活を彩りのあるものに変えていくか、という需要が生まれ、娯楽産業が勃興する。

娯楽産業はあらゆる点で必需品を作るハード側の産業とは違う。

人間が生きるために必要なモノを扱うわけではないので、喜びや驚きがないと見向きもされないし、わかりやすく快適でないとそっぽを向かれてしまう。技術や性能、価格といったハードの出来ではなく、コンテンツの面白さやルール、仕組み、すなわちソフトの出来が求められる世界である。

言い換えると、娯楽産業は、高機能、高品質のモノをより安く作るための体質が優先されるハード産業とは違い、洗練されたソフトを生み出す体質、すなわち、ソフト体質が優先される、というのが山内の持論だ。

──『任天堂 "驚き"を生む方程式』(日本経済新聞出版社) 井上理(著)

こうした意識が社内に浸透しているからこそ、世界中のゲームプレイヤーに新たな「驚き」を提供し続けてこれたともいえるだろう。

ただし、どんな大企業も最初はスタートアップだった。そして決して創業者の力だけで成功したわけではない。厳しい時には運命的な出会いに恵まれ、さまざまな才能が集まって事業を拡大してきたという背景があるものだ。もちろん任天堂も例外ではない。京都の花札会社から、世界のNINTENDOになるまで。突破のきっかけとなった、4つの出会いの歴史に注目してみよう。

本記事の執筆において主に参考にした本は、その名も『任天堂 "驚き"を生む方程式』(日本経済新聞出版社)。『日経ビジネス』編集部の元記者である井上理氏が、過去に任天堂の経営陣を取材した記録をもとに執筆したものである。

【出会い】ロイ・ディズニーと山内溥
【驚き】ディズニートランプ

1889年より京都で花札を製造していた中小企業から、世界の誰もが知るゲーム会社へと発展する最初のきっかけとなったのは、任天堂の創業者である山内房治郎(ふさじろう)が、花札の製造技術を流用し、1902年に初めて国産のトランプを製造・販売する事業である。

かつて「東洋の煙草王」と呼ばれ、同じ京都を拠点としていた村井兄弟商会の村井吉兵衛と山内房治郎は面識があった。たまたま、たばこの箱とトランプがほぼ同じサイズだったことも功を奏し、任天堂は村井兄弟商会のたばこ流通網を利用して、早々にトランプの全国展開を実現する。

創業当時の任天堂本社。Source: Wikimedia Commons(Public Domain)

やがて房治郎の孫にあたる山内溥が家督を継ぎ、1949年に22歳で3代目社長に就任すると、初代と先代が築いたトランプ事業のさらなる発展に取り組む。まずは、53年に日本初となるプラスティック製トランプを発売する。紙と比べて高価だったため初速は伸び悩んだものの、優れた耐久性のメリットが消費者に伝わるようになると、着実に売上を伸ばしていった。

会社を継いでから10年、32歳となった1959年には、世界を相手に大型の提携案件を実現する。米ウォルト・ディズニー社のロイ・ディズニーと直接交渉をして、ミッキーマウスなどのキャラクターを日本で使用する版権を獲得。それらをトランプの図柄として印刷した「ディズニートランプ」の発売に漕ぎ着けたのだ。

山内溥をインタビューしたテレビ番組より。

それまで接点のなかった玩具店への販路を開拓できたこともあり、ディズニートランプはその年、60万箱という記録的な大ヒットを成し遂げた。ちなみに家庭でも楽しめるように、さまざまな遊び方を記した「プレイガイド」を同封したことも、大きな成功の要因だとされている。トランプというハードウェアに、キャラクターとカルチャーを導入したという意味においては、実はこれがゲーム会社への第一歩になったとも言えるのである。

【出会い】横井軍平と山内溥
【驚き】ウルトラハンド

どのようにしてトランプで成功した会社が、テレビゲームを作るようになったのか?

実はその転換期をリードしたのは横井軍平という新卒社員だった。

同志社大学で電子工学を専攻し、任天堂で初の理工系社員として入社した横井は、のちにあの「ゲームボーイ」や、その前身である「ゲーム&ウォッチ」の発明者として世に知られるようになる。だが、本当は落ちこぼれだったと生前、ジャーナリストの牧野武文に語っている。

(前略)同級生はほとんどが大手の電機メーカーに就職していた。任天堂は今でこそ日本を代表する企業だが、当時の主力製品は花札とトランプで、電子工学の知識に出番などはほとんどなかった。企業とは名ばかりで、職人が花札を手作業で貼り合わせて作っているような地方の町工場の臭いが漂っていた。 「任天堂に入社してしばらくは同級生に会うのが嫌だった」と語ってくれたこともある。 「だから、私はほんとうの落ちこぼれなんですよ。その落ちこぼれの私を拾ってくれた任天堂には、ほんとうに感謝しています」と何度も言う。

──『任天堂ノスタルジー 横井軍平とその時代』(角川新書) 牧野武文(著)

それまでほとんどメディアに出ていなかった横井軍平を特集した注目の2冊。

そんな自称「落ちこぼれ」の社員を、社長が社内に眠る原石として発掘し、大抜擢したのだった。のちに横井は『文藝春秋』に寄稿したコラムで、その奇跡的な出来事を次のように振り返っている。

(前略)出社してみると、部署は工務課。トランプや花札を製造する機械のメンテナンスをやる仕事です。当時、新しい法律ができて、30KVA以上の受電設備を有する企業は電気主任技術者を置かねばならないことになったそうなのですが、どうも、そのために採用されたようです。

ところが、電気管理というのは退屈で仕方がない。もともと私は物作りが好きだったのですが、会社には立派な旋盤とか彫刻機といった機械が揃っている。そこで退屈凌ぎにいろんな玩具をつくって遊んでいたのです。

ある時、社長が私の作った玩具を見て「お前、それを持ってちょっと役員室へ来い」と言う。てっきり怒られると思ってついて行ったら、いきなり社長に「それを商品化して売りたい」と言われました。

今、考えてみると、それが私の人生のはじまりであり、ある意味では、「トランプ、花札の任天堂」が「世界の任天堂」に変わる最初の一歩だったかもしれません。

入社してまだ1年も経たない、しかも玩具を商品化した経験もなければノウハウもない私が、見よう見真似で、金型の設計からどこで成形して組み立てるかということまでやった。

それが『ウルトラハンド』という名前の商品になりました。

──『文藝春秋』1996年11月号 ゲームボーイを開発した伝説の技術者・横井軍平「私はなぜ任天堂を辞めたか」 横井軍平(文)

ドンキーコング(1981年アーケード版)のプレイ動画。

【出会い】横井軍平と宮本茂
【驚き】ドンキーコング

ウルトラハンドは大ヒットを記録した。その実績が評価され、横井は社長直属の部署として新設された開発部に配属となる。そこから「ウルトラマシン」や「光線銃」など、数多くのアイデア玩具を開発するのだが、横井の凄いところは、ハードウェアの開発だけでなく、やがてゲームソフトもプロデュースできるようになったことだ。実際のデザインやプログラミングは部下に任せたものの、商品企画は横井が担っていた。その代表作がマリオのキャラクターが誕生したアーケードゲーム「ドンキーコング」である。

当時、任天堂はニューヨークに支社を設立して間もないころだった。経営を任された支社長は、ニューヨークのゲームセンターで子どもたちに受けがよかったアーケードゲームを3000台ほど発注して勝負に出る。しかし、日本で製造したゲーム機が船便でニューヨークに到着するころには、すでに子どもたちの好みは変わっていて、残念ながら多くが売れ残ってしまった。その売れ残った基盤を使ってどうにか新しいゲームを開発して損失を取り戻せないか、と横井が率いる京都本社の開発部に救済の依頼が届いたのだ。

その頃の開発部はゲームボーイの前身となる「ゲーム&ウォッチ」の開発に追われていて、まったくリソースに余裕のない状況だった。そこで白羽の矢が立ったのが、のちに「マリオ」の生みの親として知られるようになる新卒のデザイナー、宮本茂である。

当時パッケージデザインをやっていた宮本というのがおったんですね。その宮本を引っ張り込んで、「ゲーム&ウォッチでポパイのゲームを作ろう」ということで、いっしょに構想を練っていたんですね。これをそういう事情で、急遽売れ残りの基盤に乗せることにしたんです。 で、わりとすぐに「下にポパイ、上にブルートを配置して」というゲームの骨格ができあがったんですけど、後でポパイの版権がとれないとわかった。しかたなく、ゲーム内容はそのままでキャラクターだけ変えようということになったんですね。で、変えたのがマリオとドンキーコングとピーチ姫だといういきさつなんです。

(中略)

マリオというキャラクターは宮本君が作りました。ポパイをどういう風に変えるかと考えて、工事現場だから作業服を着たキャラクターにしようと。ヒゲをつけたのも宮本君ですね。

──『横井軍平ゲーム館: 「世界の任天堂」を築いた発想力』(ちくま文庫) 横井軍平, 牧野 武文 (著)

もとはと言えば米国法人が大量に在庫を抱えてしまったアーケードゲームの救済措置として始まった本プロジェクトは、結果的に在庫分を遥かに上回る6万台を超える大ヒットを記録する。もちろん宮本茂がそのプロジェクトにおける中心的な役割を担っていたものの、決してひとりの力だけで成し遂げたわけではない。彼の側にはいつも横井がいたのである。

【出会い】岩田聡と山内溥
【驚き】「星のカービィ」「スマブラ」

横井が発案した、亀のキャラクターをマリオが突いてひっくり返すアーケードゲーム「マリオブラザーズ」のアイデアをベースに、宮本がファミコンのためにいちから作ったゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」が大ヒットを記録していた頃、社外では岩田聡が、ゲームプログラマーとしての才能を開花し始めていた。

マリオブラザーズ(アーケード版)のプレイ動画。

岩田はファミリーコンピュータが発売される前年に大学を卒業し、大学2年生からアルバイトとして勤めていた「ハル研究所」に入社する。新卒といっても岩田はゲームソフト開発担当としては1号社員で、当時「マイコン」と呼ばれていたパソコン周辺機器用のゲームソフト開発を一手に担っていた。

衝撃を受けたのは、入社2年目、1983年のこと。任天堂がゲーム専用機のファミコンを、マイコンに比べれば破格の値段、1万5000円で発売したからだ。 「ソフトを作らせてください」 岩田の足は、自然と任天堂の本社がある京都へ向かっていた。岩田と任天堂の蜜月の始まりだ。

(中略)

「ゴルフ」「ピンボール」「F1レース」......。ハル研究所は、ファミコン初期を支えた、これら任天堂製の有名ソフトの仕事を請け負うことに成功し、信任を得ていく。

──『任天堂 "驚き"を生む方程式』(日本経済新聞出版社)

開発案件が増えたのでゲーム開発者を多く採用し、岩田は取締役に就任する。会社は順調に成長していたのだが、ある時、いきなり経営が破綻してしまう。会社の規模拡大に合わせてオフィスを移転するために銀行から多額の建設費用を借り入れたのだが、その矢先にバブル崩壊の煽りを受けて、資金繰りが悪化。事実上の倒産状態にまで追い込まれた。

この時、開発資金を供与し、絶体絶命の危機を救ったのは任天堂社長の山内だった。ただし、その条件として経営再建に当たる社長を岩田にすることを求めた。

その後、「星のカービィ」と「ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ」が任天堂製として発売されたが、実は両方ともハル研究所が開発を受託していた。2つとも岩田が社長に就任してから生まれた作品であり、社長自らプログラムを書いたこともあったという。

その頃の元部下で、どちらの作品も手がけた桜井政博と岩田の貴重な対談記事が任天堂のウェブサイトに掲載されているので、ここでその一部を紹介しよう。

──岩田
さて、せっかく、私と桜井くんがふたりで『スマブラ』の話をするわけですから、ここで、いちばん昔の話をしてみようと思います。このシリーズのはじまりは、1999年にニンテンドウ64で出た『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』なんですが、そのプロトタイプは、桜井くんと私がふたりでつくったんですよね。

──桜井
いわゆる『格闘ゲーム竜王』ですね。

──岩田
まだ、任天堂のキャラクターが乗っていなかった段階のゲーム。企画と仕様、デザイン、モデリング、モーション、すべて桜井くんがやって、プログラムは私ひとりという、ある意味、究極の手作り作品で。

──桜井
ファミコン時代のゲームみたいな体制で(笑)。サウンドにもうひとりいましたけど。

──岩田
当時は、いろんなソフトを手がける一方で、本当に自分たちがつくりたいもの、アウトプットというのを模索している時期で。そんなときに、桜井くんがなにかおもしろいものを考えているというので、「それはさっさとつくって動かしたほうがいい」ということで、「オレがプログラム書くから、企画、書きな」と桜井くんをうながして。とはいえ、当時はふたりとも仕事を抱えているのでとても時間はとれなかったんですけど。

──社長が訊く『大乱闘スマッシュブラザーズX』Vol.7一期一会なゲーム(任天堂ホームページ)

「カービィ」と「スマブラ」のヒット作を生み出せたことにより、岩田の会社はなんとわずか6年で15億円もあった負債を完済できたのだった。

山内は、その岩田の経営手腕を見込んで、今度は任天堂に来ないかと誘った。そのわずか2年後の2002年に社長を退任し、岩田を第4代社長に任命する。

社長交代前は、ソニーに少し押され気味だったのだが、岩田体制になってからは、記事冒頭で紹介した岩田の言葉にある通り、「DS現象とWii現象」が世界中で巻き起こり、任天堂はさらなる発展を遂げていく。その先に、いまの「Switch現象」がある。

だが、もしあのとき山内溥がロイ・ディズニーに会いに行っていなかったら。もし新卒社員の横井軍平の才能に気づいてあげられなかったら。もし横井と宮本がタッグを組んでいなかったら。岩田が任天堂本社に営業しに行っていなかったら......。いまのように、世界中の人々が任天堂のゲームを楽しめることはなかったかもしれない。

出会う、が、世界を変えたのだ。

Top Photo: "Yoshi & Mario" by Alexander Danling (CC BY-NC 2.0)