これからのキャリアを考える

人は誰でもアーティスト──NYで活動する異端の指揮者・伊藤玲阿奈が日本人に伝えたいこと

ニューヨークを拠点に世界的に活躍する指揮者・伊藤玲阿奈のインタビューを2回にわたってお届けする。前編では、平和活動やビジネスパーソン向けの教養講座など、従来の音楽家の枠を超えて活動の幅を広げる「異端」のキャリアを紹介。背景にある想いに迫る。

伊藤玲阿奈はニューヨークに拠点を置き、音楽の殿堂カーネギーホールで過去4度の公演を成功させるなど、世界的に活躍する日本人指揮者の一人だ。

国連協会が後援する国際平和コンサートをはじめ、音楽を通じた平和貢献活動にも積極的。近年はさらに活動範囲を広げ、ビジネスパーソンに向けた教養セミナーを自ら企画し、開催している。音楽はもちろん、哲学、歴史など幅広い知識に裏打ちされた内容が好評だという。

伊藤は自身を指して「異端の指揮者」と呼ぶ。確かに彼の持つ知識や活動の幅は一般的な音楽家のそれを超えている。加えて辿ってきた経歴も異色だ。学生時代までの夢は外交官。多くの音楽家がそうであるように、幼いころから現在の職業を志し、努力を重ねてきたわけではなかった。

人はどのようにして天職、天命と出遭うのか。伊藤はなぜ、一般的な指揮者像を超えて活動の幅を広げ続けるのか。ビジネスパーソンはそこから何を学びとれるだろうか──。異端の日本人指揮者のインタビューを前後編にわたってお届けする。

伊藤が生まれた福岡県田川市は、昭和中期まで三井が大規模な炭鉱を経営していたことで知られる。祖父は鉱員のレクリエーションのために作られたオーケストラの指揮者だった。とはいえ、伊藤自身は決して幼いころから音楽の道を志していたわけではなかった。

なし崩し的に指揮者の道へ

──玲阿奈さんが講演で語る内容は、哲学や歴史学など幅広い分野に及んでいますね。

それは私がこれまで辿ってきたキャリアと関係があります。私はもともと指揮者を志していたわけでも、音楽家になりたかったわけでもないんです。高校までは地元・九州で進学校に通っており、当然のように国内の国公立大学への進学を目指していました。特に高校はとても厳しい学校で、当時は各校が東大進学者数を競い合う時代でもありましたから、一日中机に向かって勉強させられる生活を送っていました。大学受験を目前に控え、そんな生活に耐えられなくなった私は、ひとことで言えば敵前逃亡するような形でアメリカに留学する道を模索し始めました。

──アメリカの音楽学校ということ?

いえ、音楽と関わるようになるのはまだ先の話です。もともと歴史が好きでしたし、高校時代を過ごしたのが平和教育の盛んな長崎だったこともあり、当時の私の夢は国連職員や外交官になって、紛争解決など世界平和に貢献することでした。そこで、留学先には国際関係学で有名なジョージ・ワシントン大学を選びました。キャンパスはホワイトハウスからわずか3ブロックの距離にありますし、安全保障について学ぶには最適な環境のように思えたのです。

──なるほど。しかしなぜそこから音楽の道へ?

二回生の時に一般教養の授業でピアノのクラスを受講したことが大きな転機になりました。ピアノのクラスを選んだのは「英語を使わなくていいから」という適当な理由でしかなかったのですが、アメリカの教育は日本と違って、とにかく褒める。それまでピアノをやってきたわけではないので、大した技術があるはずもない。でも「君の演奏はここが素晴らしい」「いい才能を持っているよ」と、とにかく先生から褒められました。豚もおだてりゃ木に登る。すっかり気を良くしてしまった私は、1日10時間、ひどい時には16時間もピアノの練習に明け暮れるようになりました。

──大学の一般教養の授業がきっかけだなんて意外です。

このころになってようやく音楽家になりたい気持ちも芽生えてきました。けれども親にはちゃんと卒業することを条件に留学を許されていましたから、まずはジョージ・ワシントン大学を卒業し、その後ニューヨークに引っ越して、またイチから音楽大学に入ることにしました。それで門を叩いたのが、みなさんもご存知のジュリアード音楽院でした。しかし、私はここでまたしても敵前逃亡することになります。夜間部のピアノ科に入るべくオーディション会場を訪れたのですが、世界中から集まったピアノエリートを前にして、ひと目で「これはダメだ」と悟りました。いまにして思えば、それを感じ取れたのが自分のいいところでもあったのですが、当時はただ自信を喪失しただけでした。

──では、オーディションは受けずじまい?

はい。けれども親に啖呵を切って出てきた手前、どうにかして音楽の道に進まないわけにはいかないという焦りがありました。そこでオーディション会場から夜間部オフィスまで直行し、改めてカタログを見直して他の道はないかと探しました。その中で「これならいけるかも」と思えたのが指揮のコースだったんです。すでに募集は締め切られていましたが、ダメ元で教授の部屋を訪ねると特別に口頭試問をしてくれることになり、その時点で持っていた知識と熱意の全てを伝えたら、入れてもらえることになりました。だから、私が指揮者になったのは小さいころからの夢でもなんでもない。紆余曲折を経て、なし崩し的に入ったというのが真相です。

プロデビューは大学院で師事した先生の代役として。「病気でもないのに公演最終日の舞台を譲ってもらえた。それまでの努力を評価してくれた、師匠の粋な計らいだった」。

幸運な出会い。一足跳びのカーネギーデビュー

──ともあれ、そこからは指揮者としての順調な歩みが始まった?

とんでもない。ジュリアードの夜間部や、その後に通ったマネス音楽院ではあくまで基礎的なことを習ったに過ぎず、指揮者としてデビューするためには、さらに大学院の指揮科に通わなければなりません。それで、続けて大学院を受験する必要がありました。さて、大学院の指揮科の定員って何人くらいだと思います?

──うーん......10人くらいですか?

と思うじゃないですか。実はたったの一人です。学校によっては一回に複数とるところもありますが、それでも三人以下が普通です。一つの楽団に必要な指揮者は一人だけですから、バイオリン奏者のように人数は求められないんです。私はこの狭き門をくぐるのに二浪することになりました。確固とした自信をもって指揮を学べていた私には本当にこたえました。それまでも何度か敵前逃亡を繰り返してきたと言いましたが、自分で自信を持っている分野で失敗したのは人生でこの時が初めてだったと思います。浪人時代にはノイローゼになって、いま思い出すだけでも背筋が凍るような危険な状態を経験しました。

けれども最終的には、アロン・コープランド音楽院というところになんとか入れることになりました。ジュリアードなどと比べればレベルは低いのですが、結果的にここに入れたことが、私にとってとても幸運なことでした。というのも、まず決してエリート学生ばかりが集まっているわけではないので、自然と自分がトップに立つことができた。「鶏口となるも牛後となる勿れ」のことわざが示す通りで、すぐに自信を失いがちだった当時の私にとって、このお山の大将的なポジションがとても合っていたのです。

──なるほど。

もう一つの幸運は、ユダヤ人のモーリス・ペレス先生という非常にいい師匠と出会い、かわいがってもらえたことです。自分としてもその期待に応えようと一生懸命に勉強しました。すると在学中の2008年3月に、ものすごいチャンスをもらえることになりました。もともとペレス先生が指揮するはずだったオペラ公演「フィガロの結婚」の最終日に、先生の代わりに私が指揮棒を振らせてもらえることになったのです。いまは昔と違って、ちゃんとしたオペラ公演でオーケストラピットで指揮できるのは、名のある一部の指揮者のみで、若い指揮者が振る機会などほとんどない時代です。ですから師匠から「お前がやるんだ」と言われた時は本当に驚きました。

──いきなり大チャンスをもらえたわけですね。

それがお金をいただいて指揮をする、私にとってのプロデビューになったのですが、幸運はさらに続きました。その公演をたまたま見にきていた方から翌月末になって電話があり、「6月にカーネギーホールで公演があるのだが、空きが出てしまったので、代役として出ないか」と誘われたのです。良いと思ったらチャンスを与えるのがアメリカと頭では知っていたにしろ、ひと月で再びチャンスが巡ってくるとは想像だにしていませんでした。しかも、その舞台は音楽の殿堂と呼ばれるカーネギーホール。ここに至るまでにはノイローゼになるなど、つらい思いもたくさんしましたが、指揮者としてのスタートは最高に恵まれたものになりました。

東日本大震災がきっかけとなり、平和活動へと目覚めていく。2013年にクロアチアで行った国交20周年記念演奏会の際には、大統領から公式会見に招かれるという経験も。

「芸術のための芸術」を超えて

──しかし、指揮者としてそこまで好スタートを切った玲阿奈さんが、なぜ現在のように音楽以外にまで及ぶ幅広い活動を?

プロデビューしてしばらくは一般的な指揮者と同様の活動に専念していたのですが、次第に「こうした活動は本当に社会に貢献しているのだろうか」と疑問を抱くようになりました。クラシックが素晴らしい芸術であることは確かですが、それを心の底から楽しんでいる人がどれだけいるだろうか、と。もちろん愛好者の方はいらっしゃいますが、それはほんのひと握りに過ぎません。私としても間口を広げるための努力はしてきたものの、どんなに名曲でもある程度の長さになると、初心者の方はどうしても途中で退屈してしまうようでした。

──普段親しんでいない人にとってクラシックは確かに敷居が高いイメージです。

私自身はクラシックが好きなので最初はそれが理解できなかったのですが、何年か続けていくうちに、そういう人の気持ちもなんとなくわかるようになっていきました。小さいころからクラシックを聴く習慣がなかった人にとっては、確かに苦痛なのかもしれない、と。しかし、だとすれば私は自分自身の活動のあり方を根本から変えなければなりませんでした。

──どういうことですか?

先ほどもお話ししたように、私はもともと外交官になりたいと思っていたような人間です。自分の仕事を通じて社会に貢献したいという思いが強かった。これまでの活動が一部の愛好家にしか届かないものだったとするならば、私の思いは叶わないことになるわけです。「わかる人にだけわかればいい」という姿勢は芸術至上主義でしかない。音楽は私にとってやっと出遭った天職だと思っていたけれども、もっと世の中に貢献できてこその天職だろうと思い直すことになりました。

──それで活動の幅を広げていった。

決定的な転機は2011年の東日本大震災でした。ニューヨークにいた私は津波の映像をテレビで見ることになったのですが、日本との間に横たわる物理的な距離を思うと、とてつもない無力感と絶望感に苛まれました。「自分が日本にいたらボランティアでも何でもやって被災地のために何かできるのに」という悔しさが沸き起こって仕方なかったんです。けれども、その後にたまたま流れてきたクロアチアのニュース映像を見て、私の考えは一変することになりました。

──クロアチア、ですか。

それは首都ザグレブで行われた反政府デモの行進の映像だったのですが、ちょうど日本大使館の前にさしかかったところで先頭の人が急に歩みを止めました。キャンドルを地面に置いて火をつけ、震災犠牲者のために黙祷を始めたのです。最初は起きていることが飲み込めなかった後続の人たちもすぐにその意図を理解し、日本の人々を思って祈りを捧げ始めました。私はその様子を見て、人間の精神性を鼓舞するのに物理的な距離は関係ないことに気付かされました。私もアーティストの端くれなのであれば、ささいな理由にとらわれて悲嘆に暮れているばかりではなく、やれることがあるはずだ、と。

クロアチアの反政府デモ隊の映像。1:18から日本大使館の前にキャンドルを置く場面が映され、2:04から黙祷するシーンが記録されている。

──なるほど。

私はクロアチア人の友人を通じて「恩返しのチャリティコンサートがしたい」とクロアチア側に申し出、震災から半年後にそれは実現しました。幸いなことにこれが好評で、その後も現地の音楽祭に呼ばれるなど交流が続きました。日本とクロアチアの国交20周年に当たる2013年には、その国交樹立の記念日に、日本とクロアチアの音楽家による大規模なコンサートをやらせていただくことができました。

日本クロアチア国交樹立20周年記念演奏会。ザグレブシンフォニエッタとクロアチア陸軍音楽隊、そして日ク合同の合唱団を率いて、モーツァルトの遺作「レクレイム ニ短調」の全曲を演奏した。

自分の使命がおぼろげながら見えてきたのは、このころからでした。いわゆる民間外交のような形で、イスラエル、パレスチナ、シリア、ウクライナなどの人々と一緒に平和コンサートを開催することができました。講演活動を始めたのもこうした流れの中でのことです。音楽だけをやっていたのでは、音楽に関心のある人にしか私の思いは伝わらない。これまでの経験で培ったその他の知識も役に立つのであれば、それを世の中に還元しなければならないと思うようになっていきました。

「人と違う活動をすることは時として激しい批判を受けるが、あらゆる価値観の根拠が揺らぐこの時代だからこそ、己の本心を信じて進んでいきたい」と伊藤。

自分の中のアートに気付く方法

──玲阿奈さんがご自身を「異端」と呼ぶ意味がわかった気がします。

指揮だけやっていればいいものを、関係のないことばかりやっている。クラシックの保守本流の方々からすれば「あいつは本当に指揮者なのか?」と言われかねないでしょうね。でも、その批判は覚悟の上です。こうした「異端」の活動をしている背景には、21世紀になったいま、「これまで通りのやり方をしていたらクラシックは廃れるだけだ」という危機感もあります。

──どういうことでしょうか?

先ほどもお伝えしたように、クラシックの愛好者はもともと少ないうえに、近年どんどん減っています。かつての指揮者はコンサートで指揮をする、そしてCDを作って売るという資本主義的な音楽産業システムの中でうまく立ち回っていれば、アーティストとしての社会的役割をある程度果たすことができました。けれどもいまや、有名オーケストラも赤字に苦しみ、パソコンからはCDの挿入口が消えて、ネットでいくらでも音楽が聞ける時代です。

これはうまく伝えるのが難しいのですが、今後私たちが生き残っていくには、そうした既存のシステムに乗ることよりも、一人の人間としての精神性が大事になってくるのではないか、と。違う言い方をするならば、本当に「この人はいいな」と思ってくれさえすれば、たとえ無名であっても、耳を傾けてくれる時代ではないかと思うのです。これだけ多数の価値観や情報があふれる時代では、権威や押し付けはあまり意味をなさず、人それぞれが本当に良いと信じるものだけを選択する確率の方が高いのではないでしょうか。だから私は、たとえ批判されようとも我が道を信じて進もうと思って活動しています。

──その「我が道」というのは、音楽を通じて世界平和に貢献すること?

それももちろんそうなのですが、もう一つ、みなさん一人ひとりが自分の中に持つアートを目覚めさせることこそが、私の役目なのではないか、と。ところで、「芸術」は旧字体では「藝術」と書き、新字体が定められる昭和20年代まで用いられたこちらが本来の漢字です。この旧字体の「藝」という漢字の成り立ちをご存知でしょうか。西洋の「art」にこの字を当てたのは明治時代の哲学者・西周ですが、これはもともと農業用語で、農夫が手に持った苗木を地面に植え、それが天に昇って、やがて収穫されていくさまを象形しています。西はこれを転じて、アーティストが何物かを人の心に植え付け、そのタネが人々の心の中で育ち、天に昇っていくという意味を込めました。非常にうまい訳だと思います。

「藝」はもともと「苗木を植える」さまを象形したもので、「芸」とは別の漢字だった。芸術家は西周が「藝」の字に込めた本来の意味に忠実であるべきと伊藤は説く。

──知りませんでした。

天に昇っていく何かというのは、その人自身のアート、言い換えるならその人自身の才能であり、心から没頭できるもののことです。本来は誰もがそうしたものを自分の中に持っているはずなのです。それが音楽なのか、書き物なのか、ビジネスなのか、それは人それぞれなのでわかりませんが、いずれにしろ、私は自分の音楽やその他の活動を通じて何物かを人の心に植え付け、そこからその人自身の才能が目覚めたり、ワクワクしながらやれる何事かを見つけたりしていく、そのきっかけとなりたい。いまこそ西周が藝という字に込めたアートの意味に立ち返って、「藝術家」本来の役目を果たしたいと思っているのです。

──アドビが以前行った調査によれば、日本の子どもは、自分のことをクリエイティブだと思っている割合が世界的に見て極端に少ないそうです。それはおそらく大人、ビジネスパーソンでも同じでしょう。自分の中のアート、クリエイティビティに気付くには何がカギになりますか?

一つには、子どものころからの自分の育児・教育環境を客観的に知ることです。私の場合は、アメリカ流の褒めて伸ばす教育によって自己の本心を急激に揺り動かされたことで、眠っていた種子が芽生えたわけです。アメリカ流が絶対良いとは決して思いませんが、少なくとも私にとっては、まさに「藝術」的に機能してくれました。

日本流は真逆で、ある基準や常識を満たすように、足りない点を見つけ補ってあげるのが一般的です。その利点も十分ありますが、この方式だと、自分で何かを作りあげる勇気や喜びを得ることが難しく、自他を褒めるより厳しくする方向に行きます。そして自分の本心を抑え込んででも世の基準やルールと同調させる圧力が強くなります。

以前BNLで取材したアドビの武井史織によると、アドビのアンケート調査で「自分が創造的だ」と回答した子どもは、わずか8%。欧米諸国と比較するとその差は歴然だ。

──まずは私たちの育った環境をよく分析して、本心を押さえつけてしまうメカニズムを理解すべきということですね。

そうです。その上で、目の前のどんな現象にも100%の正解はないと悟ることです。失敗や逃亡だらけの私の人生を見てください。失敗した時は、自分がこんな指揮者になるなんて夢想だにしませんから、やったことすべてが無意味に思えて辛くて仕方なかった。しかし、それが10年、20年あとに役に立っているという不思議さ。大学受験で当時ワクワクして勉強した歴史は講演活動の基礎に、外交官になろうと学んだ政治や経済などの諸学は政府・国連の方々との交流や交渉に、下手くそでも夢中に練習したピアノ技術はオーケストラ楽譜の勉強に、という具合です。

陰と陽が合わさってこそ一つの宇宙、人生が完成します。目の前の現象に一喜一憂せず、「神は曲線によりて真っ直ぐに描く」の格言どおり、人為人知を超越したところに自分の人生を見るのです。これに慣れると、世の基準や常識に囚われにくくなって、自分の中のアートに自然とアクセスしやすくなります。これはビジネスパーソンにとっても特に大切な精神だと私は強く信じています。