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科学絶対主義に警鐘。ビジネスパーソンは「古代人の音楽観」に学べ──指揮者・伊藤玲阿奈が説く

いま私たちが音楽と呼ぶものと古代文明のそれとは大きく異なる。17世紀の科学の登場が本来の意味を矮小化した経緯があるという。ビジネスにおいても理論一辺倒の手法の限界が叫ばれるいま、古代人の音楽観から何を学べるだろうか。

ニューヨークを拠点に世界で活躍する伊藤玲阿奈は、音楽にとどまらない豊富な知識を持ち、ビジネスパーソン向けの講演でも人気の「異端の指揮者」だ。古典作品の魅力をわかりやすく伝える教養ものから、楽団を文字通り指揮する立場として語るリーダーシップ・組織論まで、自作のカリキュラムは幅広い。

その中の一つに「宇宙の音楽を聴く」という一風変わったタイトルのものがある。伊藤によれば、高度に洗練された古代文明が考えていた音楽観はまったく聞こえない音までを含む壮大なものだったが、17世紀に登場した科学によって矮小化され、現在の私たちの音楽観に至っているのだという。「宇宙の音楽」とは、その古代人たちが「聞こうとした」究極の音楽を指す。

ビジネスの世界でも、現代の複雑化した経営課題を解くにはもはや科学や理論にだけ頼るのでは限界があると言われ、近年はMBAを学ぶ代わりに幹部候補にアートを学ばせるグローバル企業が増えている。

ビジネスパーソンは古代人の音楽観から何を学べるだろうか。自身のキャリアについて聞いた前編に続いて、「異端の指揮者」の言葉に再び耳を傾けてみよう。

聞こえる音だけが音楽ではなかった

──いま世界のビジネスエリートの間でアートを学ぶ動きが増えていると聞きます。古代人の音楽観を紹介しつつ、科学的思考について考える講座「宇宙の音楽を聴く」からビジネスパーソンは何を学べるでしょうか?

これはいまを生きる私たちが物事を考える際に、その方法を縛っているものを確認しようよというお話なんです。それがすなわち科学ですよね。これまでビジネスの最前線に立つ幹部候補生たちが学ぶ必要があるとされてきたものは、MBAにしろ金融工学にしろ、すべて科学的な思考方法、実証主義にもとづいたものでした。その結果、ひとことで言うならインスピレーションより理論に頼って行動する頭でっかちな人が増えてしまっているんです。

アメリカでいま、MBAの代わりに音楽や絵画といったアートを学ばせるところが増えているのは、科学一辺倒とは違う思考方法を学ぼうということ。まあ、アートを学ぶ時でさえ西洋人は理論的に学ぼうとするから、それが逆効果だったりもするのですが。私が「宇宙の音楽を聴く」という講義に込めたのも狙いとしては同じ。まずは私たちの思考がいかに科学絶対主義に縛られているかをみなさんに知ってほしかった。それを古代と現代の音楽観の違いを見ることを通じて理解してもらうのがこの講座というわけです。

私たちの思考がいかに科学絶対主義に縛られているか。古代と現代の音楽観の違いを見ることを通じて理解してもらいたい。

──興味深いです。

概要をざっくりお伝えすると、まず、近代以降の時代を生きる私たちが当たり前に考える音楽と、古代の人が考える音楽は違います。私たちが普段"音楽"と呼んでいるのは耳で聞こえる音、そしてそれによってできた作品のことですよね。けれども古代の人たちは音として聞こえないものも音楽として考える。宇宙全体、あるいは神などと称される存在がいる世界そのものまでをも音楽と捉えるんです。もちろん、その音楽は音の作品として聞こえるものではありませんが、究極的には、そうした音にならない音楽を「聞ける」ようになることが、人間の目指すべき境地だと言っているんですね。

しかし、こうした古代人の考え方は17世紀からの科学的思考の普及によって駆逐されていき、現代人の私たちがそうであるように聞こえるものだけを音楽と呼ぶようになりました。先ほども触れたように、いまを生きる人々の中には科学的思考に頼るだけでは限界があると気づき始めている人がいます。であれば、科学が登場する以前のものから、すなわち古代人の音楽観から学ぶべきことがあるのではないか。実際の講座ではいくつか具体的な事例を挙げて、「宇宙の音楽を聴く」とはどういうことなのかを考えてもらう時間も設けています。

──現代人と古代人の音楽観がどう違うのか、もう少し詳しく教えてください。

現代人が音楽と呼ぶのは、先ほども言った通り、聞こえるものですよね。CDにパッケージングされた作品とか、楽器の音や声など。この考え方の背景にあるのが科学で、音は科学的に言うなら「空気の振動」つまり波動の一種ということになります。例えば、声は声帯が震えて空気を振動させることで発生し、その振動が空気中を伝わって、耳の中に入って聴神経で認識するとされます。ということは、音を伝える空気がない宇宙空間は無音の世界です。「宇宙の音楽」などあり得ないことになります。

ちなみに、「周波数」というのは1秒間に何回空気が振動するかを表し、ヘルツという単位で表記します。空気が1秒間に440回振動するとピアノ中央の「ラ」の音になります。これを440ヘルツと呼んでいるんです。

──一方、古代人にとっての音楽とは?

高度な文明のあったところでは共通して、聞こえるものだけではなく、宇宙や自然の存在物が放つ振動・波動のすべてを音楽と呼んでいました。それが彼らにとっては自然な考え方だったんです。なぜかと言えば、楽譜や楽器というものはあっても、音楽それ自体は目に見えないじゃないですか。そして、そういう姿かたちのない音というものが、私たちの心を感動させるわけです。これは一体どういうことなのかと古代の人たちは考えたんですね。

当時の人には現代のような科学的な知識はありませんから、たまらなく不思議だった。その不思議さに神秘的なものを感じ、魅了されたんでしょう。こうしたことから、音楽というのは日常の次元を超越した宇宙世界から直接やってきたもので、だからこそこれほどまでに心を動かされるのだと考えたんです。

伊藤によれば、高度な古代文明における「音楽」は、人間の可聴音域を超えた振動までをも含んでいた。それは中国、インド、ギリシャの古代哲学に共通して見られる。

音楽が目指したのは調和世界との一体化

これは洋の東西を問わず、高度な文明に共通して見られる音楽観でした。例えば2300年以上前の中国には老荘思想、英語でいうところのTaoizmというものがありました。この老荘思想では人間のあるべき姿を「無為自然」と表現します。読んで字のごとく、何もなさずにあるがままに生きようという意味です。自我から出る行為を極力避けて、自然のままに生きることを目指す。自分とか他人の区別さえも乗り越えることにより、「道(Tao)」と呼ばれる絶対的な幸福の境地に入るという教えです。

例えば、野に咲く一輪の花を考えます。その花は決して「私を見て!」「美しいでしょう?」などと自我を発することはなく、あるがままに世界と同化しています。そこに迫真のエネルギーが生じて、私たちは美しいと感じ、感動する。これを老荘風に言えば、この花は「無為自然」、あるべき「道」を達成しているのです。この「あるがまま」という考え方は東洋思想の古典として西洋でもよく親しまれています。ビートルズの有名な曲にもありますよね?

──『Let It Be』ですね。

そうです。文字通り「あるがままにしておこう」ですよね。さて、この老荘思想がどんな音楽観を持っていたか。荘子は音楽を人籟(じんらい)・地籟(ちらい)・天籟(てんらい)の三つからなるものとして説明していました。人籟というのはいまの私たちが音楽と呼ぶのと同じ、人の声や楽器の奏でる音。地籟は風や波、洞窟など自然が奏でる音のことです。

天籟というのは、先ほどの野に咲く花の例のように、あるがままに調和した万物が自律的に紡ぎ出している音のこと。あるがままに、自他の区別なく生きる境地だからこそ奏でることができ、同時に聞くことができる"音楽"です。その境地では人籟も地籟もすべてが違った音、すなわち天籟として聞こえ、人為自我にまみれた状態ではその自然な波動は聞こえず、感じとれない。だから、普通に聞こえる人籟・地籟よりも、全存在物たる宇宙がありのままに発する天籟を聞いて感じられることが、究極的な目標として重んじられました。

──聞こえる音より聞こえない音なんですね。

インドでも基本的にはまったく同じことを言っています。古代インドの哲学「ウパニシャッド哲学」では、自己と宇宙を一体化することで絶対的至福が得られるという基本思想が貫かれていて、音楽もその思想にもとづいたものになっています。

インド音楽に楽譜はありません。宇宙と一体化し、顕在意識を越えようとするプロセスなんです。

例えば、ラーガと呼ばれる音楽の規則では、天体の運行や星の配置、時間帯などに応じて使う音が決められているんです。

とある有名なラーガ奏者はその真髄を「音楽とは自己認識の道を進む魂の修行だ」という言葉に込めています。もう、このひとことだけでも、私たちのもつ音楽観とはかけ離れていますよね。音は神であるという伝統的な教えがあり、音による魂の修行によって、個人の意識は喜びとともに宇宙の真実の啓示と一体化する。だからインド音楽には楽譜がないんです。ラーガにもとづいて即興演奏し、最後はトランス状態に至って宇宙と一体化する。顕在意識を越えようとするプロセスなんですよ。

「朝に演奏されるラーガ」。近代西洋で発展した1オクターブを12音に均等に分ける平均律と違い、宇宙を反映して無数の音がある。当然、ドレミの音階では捉えられない。

──玲阿奈さんのご専門であるクラシック音楽にも同じような思想があるのでしょうか?

クラシックの祖先に当たる古代ギリシャ文明のピタゴラスは、本当に心地よく響く音は整数比で表されることを発見しました。竪琴の弦の長さを観察して、例えば、ある「ラ」の音の弦長を丁度半分にしたのが1オクターブ高い「ラ」の弦長と等しいことに気づいたんです。この二つの音は、音高は違えど同じ「ラ」に聞こえて、調和して響き合います。心地よく響く音が綺麗な整数比で表せる。ピタゴラスはじめ古代人は、やはり調和した世界というものがどこかにあって、音楽というのはそうした世界の反映に違いない、と魅了されたんです。

ギリシャ語には「ハルモニア」という概念があります。「ハーモニー」の語源になった言葉ですが、宇宙や自然の調和原理を意味します。この世界にはそれこそ無限に近い存在物があるのに、そこには四季というものがあり、規則正しく天体が巡っている。これは一体どういうことなのか。この世界の背後には調和した原理、ハルモニアがあるからだと考えられました。それが後にキリスト教と融合して、音楽とは調和した背後宇宙、つまり神の世界の反映であって、人の奏でる聞こえる音楽のほかに「宇宙の音楽(musica mundana)」があるという音楽観に発展しました。

「17世紀の科学革命が私たちの生活にもたらした恩恵は疑いようがない。けれども何か一つの手法が100%正しいと信じ込んでしまうことには落とし穴がある」と伊藤は警鐘を鳴らす。

科学が音楽を矮小化した

中国の人籟・地籟・天籟と同じように、西洋にも道具の音楽・人間の音楽・宇宙の音楽という呼び名がありました。重要なのは、どちらの場合も最も大切とされたのは天籟や宇宙の音楽といった聞こえない音楽であり、いまの私たちが考える聞こえる音楽は最も卑近なものとされていたことです。こうした洋の東西を問わず共通して見られる音楽観が変わったのは、やはり17世紀からだと思います。コペルニクス、ガリレイ、ニュートンといった人たちが新しいものの考え方を持ち出したんですね。

──それが科学。

まあ科学という名前自体は当時はまだなかったわけですけども。それまでは宇宙の音楽のように、普通には経験不可能なものでも、頭だけで論を組み立て、啓示的に探求していく、わかる人にだけわかる世界があるとされてきたんです。ただ、そこには経験とか観察・実験を通して得た知識を軽視してしまうこと、すべての人には理解・体験ができないこと、現実の観測データと乖離することがあるといった欠点がありました。

その欠点を補おうという代表的な例がコペルニクスとガリレイの関係です。天動説が主流だった時代にコペルニクスが「実は太陽の周りを地球が回っているのだ」と言い出した、それを発明されたばかりの望遠鏡を使って観察することで、正しさを証明したのがガリレイですよね。つまり、新しい思考方法、いまでいう科学というのは、観察と実験によって仮説を証明する過程であると言えます。感覚器官を通せばすべての人間が経験可能なデータをもとに、因果律に基づいて法則性を導き出すのが科学。大事なのは、同じ方法を用いれば誰でも再現可能ということです。

──わかる人にだけわかる、じゃダメなんですね。

それを思想的に裏付けたのがデカルトです。彼は、世界を心(精神)と物質(身体)の二つに明確に分けた上で、物質の世界の方は時計仕掛けの機械のようなものだから、細分化して部品一つひとつを調べれば、いつか真実にたどり着くと説きました。ここから学問は現在のように細分化されていきます。

19世紀の終わりごろになると、心・精神の世界まで含めてあらゆるものがそうした法則性に支配されているという考えが主流になりました。ニーチェが言い残したように、ここに至って「神は死んだ」。そして、そんな考え方と相性が抜群の科学が宗教に替わる最大権威になったのです。音楽に関しても同じ。自分たち人間が感覚で捉えられるもの以外は音楽ではないということになっていきました。

──科学が音楽をも矮小化した。

しかし、科学だって本当は絶対ではないわけです。一つの思考方法として採用するのはいいけれども、それを使うからには、欠点を知っていなければなりません。まず、観察と実験ありきということは、すべての人の感覚や計測機械で捉えられないものが仮に存在したとしたら、沈黙するか非科学的と言って迫害するしかないことになります。音楽をいくら客観的に数字で分析したとしても、なぜ感動する音楽とそうでない音楽があるのかは絶対に説明できません。

なぜ感動する音楽とそうでない音楽があるのかは、科学では絶対に説明できません。

また、もう一つ例を挙げれば、科学の根本にある因果律という考え方。これが実は扱いが難しい。例えば、飲みすぎた翌朝気分が悪いのは酒のせいと考えてしまうけれども、本当は酒ではなく何か悪いものを食べたからかもしれないし、他の可能性だって否定できないわけです。

──確かにそうですね。

ビジネスにおいても日常生活においても、こうしたわれわれの思考方法を縛っている科学の限界を認識しておかないと非常に危険です。結局、すべてを機械のように扱ってしまうから問題が起こる。部下の人間性を無視して扱ってしまったり、すべてを数字で判断してしまったりといった態度につながっていくんです。

デカルト的な細分化と科学的手法による実証主義の流れに乗ったのがMBAなどの諸理論です。かつて「マッキンゼーの仕組みさえあれば、誰でも35歳で社長が務まる」などと著書で豪語した有名な方がおられましたが、理論や事例を大量に頭に入れた人が社長になっても、その経営が分析的な手法に偏ってしまうことは明白でしょう。実際、GM、スイス航空、エンロンなどマッキンゼーのクライアントには大失敗も多い。

分析力は確かに必須です。しかし、「数字が不振だから効率化」では捉えられない、見えない力が社長にも従業員にも備わっていて、その超越的な領域も併せて見極められる方こそが、立派な経営者として活躍していると私は観察しています。

人知を超えた超越的な世界が存在するという古代人の世界観は、皮肉にも一度はそれを否定した科学によって、あながち間違っていないことが証明されつつあるという。

最先端の科学が古代の音楽観に接近している皮肉

ところで面白いことに、最近では最先端の科学である量子力学が、古代の音楽観が実は正しいのではないか、あながち間違っていないのではないかと言い出しているんです。

──どういうことでしょうか?

マクロな世界を扱う相対性理論とミクロな世界を扱う量子力学を統合した、宇宙と物質のすべての物理的な謎を解決すると期待されている「超ひも理論」と呼ばれる最先端の理論があります。それによると、万物の究極の根源は実はひも状であって、それ自体にエネルギーはないんだけれども、振動することによってエネルギー、つまり質量が生まれるというようなことが言われています。つまり、万物というのはそもそもが波動、ひもが奏でるハーモニーであるというわけです。これは宇宙はすべからく音楽であるということですよね。万物が自然状態で奏でる自律的な響きを想定した古代人の考え方と、とても似ていませんか?

──確かに。

さらに面白いことに、そのひもは3次元で見る私たちの顕微鏡では観察できないんです。そのひもは何と10次元の存在らしいんですよ。だから「超ひも」なんですね。この説が正しいとすると、私たちはいま3次元プラス時間の4次元の世界にいますから、残りの6次元がどこかに隠れていることになります。それがどんなものなのかを理解することはできませんが、擬似的に想像することはできます。髪の毛を1本抜くと、それは1次元に見えますね。でも、自分がどんどん小さくなっていけば、同じ髪の毛が立体的に、3次元に見えてくる。隠れていた2次元が現れたわけです。

ということは、同じように隠れた6次元というものがあったっておかしくない。しかもこれって、私たちの理解を超えた超越的な世界が存在するという古代人の世界観とそっくりじゃないですか。最先端の物理学者が本気でそうしたことを論じ始めているんです。

──古代の音楽観を一度は否定した科学が。面白いですね。

私が「宇宙の音楽を聴こう」と言った時には二つの意味があります。一つは比喩的な意味。五感で感じ取れる科学的な思考に囚われすぎてはいけないということです。

科学的思考自体は、ここまで便利な世の中を実現してきてくれた素晴らしいものです。それは疑いようがない。でも、それが100%だと信じ切ってしまうのはどうなのか。つまり、科学的な思考を時には疑うことで、古代的で霊的、超越的なものへの信頼とうまく融合する感性を持とう、バランスを保とうというのが一つめのメッセージです。優れた経営者は最先端の科学者同様、すでにその必要性に気づいている。だからアートを学ぶのだと思います。

もう一つはより直接的な意味で。古代人のようにハルモニア、無為自然の境地になることを提案しているのです。私がいつも主張することですが、世界平和の実現には人間一人ひとりの心が調和した状態になることが先決です。素晴らしい会社にすることも一緒。人為自我にまみれる一方で、どんな現象が起こっても捉われない無為無我も目指してバランスをとる。二つの間を揺れ動いて良いのです。そうすることでしか気づけない何かがあるのではないかと呼びかけているのです。陰と陽が一つになって一つの宇宙、人生になるのですから。ビジネスパーソンはこれをさらに「事業」「経営」という言葉にも置きかえて、私のメッセージを受け取ってもらえたらと願っています。