BNL History

「伊藤園」を日本一へと導いた、3つの出会いの物語

世界で初めてペットボトル入り緑茶を発売した伊藤園は、この数十年で日本人のお茶の習慣を変えたといっても過言ではない。当然、世界初の挑戦には困難がつきものだが、そのプロセスで直面した課題に対して、突破のきっかけを与えたのは、社外のつながりだった。

「出会う、が、世界を変えてきた」をテーマに、歴史を動かしたビジネスの出会いを取り上げるセクション「BNL History」。

今回は日本茶特集に合わせて「伊藤園」を取り上げる。看板商品の「お〜いお茶」を始め、「1日分の野菜」や「充実野菜」など、自然・健康・おいしいをコンセプトに商品を作る総合飲料メーカーとして、独自の地位を築いている。全国で拡大する耕作放棄地の問題にも向き合い、ビジネス誌『フォーチュン』の「世界を変える企業50社」で2016年に日本企業最高位の18位に選出されるなど、経営面での評価も高い。

今年で創業52年。茶葉の流通業から始まり、缶入りの烏龍茶、ペットボトル入りの緑茶など、次々と日本初、世界初の製品化に成功してきた。その実績は以下の通りである。

・1972年日本初の真空パッケージ入り茶葉の製品化に成功
・1979年日本初の烏龍茶の輸入代理店契約を締結
・1980年世界初の缶入りウーロン茶の製品化に成功
・1984年世界初の緑茶飲料「缶入り煎茶」を発明
・1990年世界初のペットボトル入り緑茶の製品化に成功
・2000年飲料業界初のホット専用ペットボトル入り緑茶の製品化に成功

以前、本特集で取材した「表参道 茶茶の間」の店主、和多田善も述べている通り、この数十年の間に日本人のお茶の習慣は急須からペットボトルへと様変わりしたが、こうしてみると、ほぼ伊藤園によって変わったと言っても過言ではない。

伊藤園を創業した本庄兄弟は、ふたりとも自動車ディーラーの営業マンだった。最初お茶に関して、ほぼ無知の状態から始めたにも関わらず、これほどの実績を積み上げてこれたのは驚異である。

ただ、一つひとつの経緯について調べてみると、決して創業者兄弟や社員の力だけで成し得たわけではないことがわかってきた。日本一のお茶メーカーとなった、その成功の背景にある出会いの歴史を、ひも解いてみよう。

Top Photo: "tigers girl in tsukiji" by naoto shinozaki (All rights reserved)


出会い1. 「伊藤園」の暖簾(のれん)を所有する問屋との出会い

会社名は、創業当初から「伊藤園」だったわけではない。1966年に前身である「フロンティア製茶株式会社」が設立されていた。

当時、お茶は量り売りが常識だったなかで、茶葉を小分けにして包装した「パック茶」を直接スーパーマーケットや食料品店に売り込む営業スタイルを確立し、業績を伸ばしていく。でも茶葉を仕入れて販売する流通業だけでは、今後大きな成長は望めない。だからこそ、やがて自社製品にも挑戦したいと創業者兄弟は考えていた。お茶の製品を作るとなれば、やはり業界のしきたりとして「暖簾」を持っている方が有利なのは明らかだった。

暖簾を手に入れるチャンスは意外なところから訪れる。兄の本庄正則が巻き込まれた詐欺事件である。突然会社は、当時の金額にして約5000万円もの不良債権を抱えることになり、窮地に陥った。正則は支払いの猶予を頼むために、取引のあった東京・上野の問屋へ向かうのだが、そこの暖簾の名前こそが「伊藤園」だったのだ。

不良債権の問題を無事解決すると、正則はあらためて問屋の主人のもとへ赴き、200万円で暖簾を譲り受ける交渉に成功する。1969年、フロンティア製茶株式会社は、「伊藤園」として新たな一歩を踏み出した。

出会い2.借金の苦境から会社を救った「烏龍茶」は、新聞のコラムがきっかけ

社名を伊藤園に改め、「流通業」から「メーカー」への事業転換を図るべく、本庄兄弟は銀行から借り入れて、1974年に茶葉の生産工場と研究所を建設する。工場には最新鋭の製造機器が備えられ、研究所では日夜、緑茶の新たな価値を探る実験が行われた。その成果はすぐに現れ、伊藤園は大きく業績を伸ばす。そして、わずか5年でお茶業界のトップに登り詰めた。

しかし、いまだに会社には大量の借金が残っている状況だった。そんななか、1979年に弟の本庄八郎が伊藤園の飛躍的成長のきっかけとなる「烏龍茶」の国内独占販売の契約を取ってくる。

当時はまだ、日本で烏龍茶を飲んだことのある人は稀だった。幸運にも、いち早く味わうことができた八郎は、この中国茶に大きな可能性を見出し、茶葉を買い取る契約を交わしたことによって、その後、日本全国に烏龍茶が広まっていくことにつながるのだ。

これほど日本で烏龍茶が普及する世界を、40年前に予想できていた人はほとんどいないはずだ。年間売上が吹っ飛ぶほどの買付け額で契約を交わしてきた本庄八郎には、その未来が最初から見えていたのかもしれない。Photo "Noname" by Brent (CC BY-NC-ND)

八郎と烏龍茶をつないだ出会いのきっかけは、新聞でたまたま読んだコラムだった。記事に書かれていた「ごくごくお茶を飲む"常茶"は身体にいい」という内容が妙に気になった八郎は、その執筆者の連絡先を調べて自ら会いに行く。

執筆者の名前は小川八重子。消費者がいつでも飲めるお茶の生産を提唱する「常茶会」を設立した人物だった。ひと通り話を聞いて帰ろうとしたところで、ふと引き止められた。

「本庄さん、これ、ちょっと飲んでみて!」

目の前に出されたのは臭いも発していない茶色く澄んだ飲み物だった。

「これが烏龍茶ですか? いただきます」

ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。

「こ、これは、うまい!」本庄は心から叫んだ。ほうじ茶にコクをつけたような味で、日本人の味覚にも合う。しかも、その頃の日本人の食生活は洋風化が進んでいた。魚を煮たり、焼いたりしていた生活から、肉を油で炒めたり、揚げたりする料理が増えていたのである。そのため、日本では玄米茶が売れ出していた。

「烏龍茶のさっぱり感が合うに違いない」

そう確信した本庄は小川に「このお茶をぜひ買いたい」と訊ねると、小川は中国相手の貿易会社の社長を務めている夫を紹介し、その上、烏龍茶を仕入れてくれることを了承した。そこから烏龍茶を買っているうちに「烏龍茶輸入の総代理店契約をしないか」という話が本庄のもとに飛び込んできた。

──『伊藤園 日本一のお茶屋 そして世界のティーカンパニーへ』より抜粋

さっそく八郎は北京へ飛んだ。そして、烏龍茶の生産地である福建省からの仕入れ販売の独占権を保有する「中国土産畜産進出口総公司」と交渉し、その場で契約を交わして帰国した。契約の内容は、初年度60トン、2年目は90トン、3年目は120トンを買い取るというもの。60トン全て買い取ると金額にして約3億円。当時の伊藤園の年間営業利益と同額だった。当然社内で反対の声は多かったのだが、兄の正則はゴーサインを出した。

最初はなかなか思うように売れなかった。やはり契約は間違いだったのか、会社を潰してしまうのかと不安を抱え始めていた八郎に、幸運の女神が現れる。当時人気絶頂だったデュオアイドル、ピンク・レディーのふたりが「私たちは烏龍茶を飲んで痩せました」「毎日、烏龍茶を10杯ぐらい飲んでいます」とテレビで発言したことがきっかけとなり、爆発的なヒット商品に生まれ変わったのだ。

ピンク・レディーの販促効果は抜群で、小売店はもちろんのこと、居酒屋や飲食店でも飛ぶように売れた。初年度に契約していた60トンではまったく足りず、最終的には5000トンも仕入れることになったという。1980年に「缶入りウーロン茶」の商品化に成功すると、ウイスキーをウーロン茶で割った「ウーロン茶割り」が居酒屋で流行り、あらゆる場所に烏龍茶が浸透していく。烏龍茶を置いていない飲食店の方が珍しいくらいに、大ヒットを記録する。

出会い3. 商品名「お〜いお茶」は、コンビニの人たちと一緒に決めた

実は烏龍茶の茶葉を売り始める前の1975年頃から、本庄八郎は缶入り緑茶の製品化を狙っていた。その世界初となる商品の開発を任されたのが、78年に入社した社三雄だった。入社後、茶葉製品の販売を3年ほど担当し、お茶業界全体の生産量と消費量が落ち始めていることに危機感を覚えていた社は、ある日、本庄八郎からお茶文化に革新を起こす新商品の構想を聞いて発奮した。

伊藤園はお茶の販売で新しい手法を次々と打ち出し、新基軸を提案していたが、まだまだお茶の世界はのれん商法が主流だった。つまり、デパートや百貨店で売られているお茶屋の商品こそ一流で、スーパーなどで売られているお茶は二流の扱いだった。社は危機感を抱いていた。そんな中、当時、副社長だった本庄八郎から打開策として、こんな新商品の提案が出された。

「屋外でも飲める缶入りの緑茶をつくろう!」

──『伊藤園 日本一のお茶屋 そして世界のティーカンパニーへ』より抜粋

最初は焼き芋のような臭いに悩まされたり、やがてすぐに変色してしまったり、商品開発は難航した。それでも、社は諦めることなく、新製法の発明に成功し、日本初の缶入り緑茶「缶入り煎茶」が誕生する。本庄八郎の最初の構想から約10年を経た、1985年のことであった。

1985年に世界初の緑茶飲料として発売された。しかし、売上は思うように伸びなかった。 Photo: Courtesy of Itoen

ところが、市場の反応は冷めていた。発売から3年経っても、残念ながら際立った売り上げの成果は見られなかったのだ。当時、お茶はタダで飲めるものという感覚が一般的で、わざわざお金を払ってまで飲みたいと思うものではなかった。しかも、「煎茶」という名前は業界内では浸透していたものの、一般の人は読み方すら怪しいくらいだったという。

そこで、まず商品名を見直すプロジェクトが立ち上がった。ただし、伊藤園の社員だけで構成されたものではない。とある大手コンビニエンス・ストア・チェーン本部の人たちも加わっていたのだ。

当時、コンビニには売れ筋商品と呼ばれる「三種の神器」があった。それは「弁当」「雑誌」「飲料」の3つだ。そのうち弁当と最も相性の良い飲料の開発が望まれていた。そのため、伊藤園と連携していたコンビニ社内でも、メーカーである伊藤園とタッグを組み、弁当とセットで販売できる飲料を是が非でも売り出したいという機運が高まっていた。

「まずは『煎茶』という名前を改め、消費者にも分かるようにしてもらいたい」──。あるとき、両社によるミーティングの席上、発売3年が経っても売れ行きが思わしくない『缶入り煎茶』のネーミングの再考を求められ、消費者に理解しやすいネーミングにしていこうということになった。伊藤園にとっても、もっと消費者に近付くアイデアを提案できる機会をもらうことになった。

(中略)

発案の出所は「お茶が持っているイメージは何か」という点だった。社内では「それはとても家庭的な雰囲気のものだろう」という意見が多かった。そこで同社が持っていた商標権の中からあるフレーズに白羽の矢が立った。それが「お〜いお茶」である。

──『伊藤園 日本一のお茶屋 そして世界のティーカンパニーへ』より抜粋

「缶入り煎茶」を発売した翌年1986年の売り上げが約6億円。その後、4年間は微増で推移していた。それが「お〜いお茶」に変更した1989年には、一気に40億円に跳ね上がった。コンビニで弁当と一緒に買えるお茶として消費者の支持を得ることができたのが、その成功の大きな要因だったという。

その後、ペットボトル化にも成功し、緑茶飲料で日本一のシェアを誇る飲料メーカーとなる。だが、もしあのとき「伊藤園」の暖簾を所有する問屋と本庄正則が出会っていなかったら、本庄八郎が小川八重子氏の新聞コラムを読んで自ら会いに行ってなかったら、「缶入り煎茶」の名称を変更する提案をもらったコンビニ・チェーン本部と伊藤園がつながっていなかったら...。いまのように飲食店で当たり前のように烏龍茶を注文できたり、冷蔵庫にお茶のペットボトルが常備されていたり、コンビニや自販機で「お〜いお茶」を買うことだってできなかったかもしれない。

出会う、が、世界を変えたのだ。