抹茶盌を400年、煎茶器を150年、襲名して2年。外部デザイナーを迎えて新しい器を生み出し、それを文化として体験できるお店も作った。自らの領域を越えて新たな出会いを求め、変化を生み出したいと考えるビジネスパーソンにとって、松林豊斎の考え方はひとつの指針となる。
──いつもEightをご利用いただきありがとうございます。名刺を交換する機会は多い方ですか?
こういう仕事をしている人が皆さんどれくらい交換しているのかはわからないですが、私は年間500枚くらいはしているので、比較的多い方だとは思います。
──積極的に人と会うようにされているのでしょうか。
ほとんど仕事のご縁で交換させていただく方ですね。特にこの6年間は「GO ON(ゴーオン)」という活動に参加していまして、それがきっかけになることは多いです。
──GO ONとは?
京都で伝統工芸を受け継ぐ6人の後継者が、6年前に集まって始めたプロジェクトユニットです。伝統工芸って、わりと閉じたイメージで、ほとんどの方にとっては縁の遠いものです。そこで、もう少しオープンな形にしていけないか、いまの世の中に何か新しい価値を届ける方法はないか、と問いながら、国内外の企業やクリエイターと共に、新しいものを生み出しています。
──例えば、これまでにどんなものを生み出してきたのでしょうか。
これまでは海外の企業とのプロジェクトが多かったのですが、最近は国内のメーカーさんとご一緒させていただく機会も増えています。昨年パナソニックさんと一緒にやらせていただいたプロジェクトでは、ミラノサローネに出展しまして「Best Storytelling賞」を受賞しました。そういった形で伝統工芸の価値が、最近少しずつ認められてきているように感じています。
──GO ONは最初どういうきっかけで結成されたのでしょうか。
伝統工芸の人が海外に行って作品を発表するとき、多くの場合は商工会議所などを通して日本のブースにまとめて出展するのですが、それでは理想の見せ方がなかなか実現できないという課題がありました。そこで伝統工芸の後継者たち6人で集まって自ら発信するための方法を考えてみようということで結成したのです。茶筒を作る「開化堂」の八木(隆裕)さんに私は誘われて参加しました。
──朝日焼のお店に開化堂の茶筒が置いてあるのを見かけましたが、八木さんとはどういうふうに知り合ったのでしょうか。
「茶櫃(ちゃびつ)」ってわかりますか? いまでも旅館とかには置いてあるのですが。
──茶器が入れてある、あの丸い木の箱のことですかね。
そうです。昔は多くの家庭にもあったのですが、最近はほとんど見かけなくなりました。それはつまり、家の中に茶器の居場所がなくなってきたということ。ならば自分たちで新しい形を提案してみてはどうかと考えたのです。茶器を作る自分たちが、茶器の外側にもコントロールする範囲を拡げていく。それは設えであったり空間であったり、そういったものまで考えていこうということです。そのとき、茶櫃に入れる茶筒も必要となるので開化堂さんにお声がけしてみたところ、茶櫃に合わせたサイズの茶筒を特注で作ってもらえることになりまして。それが八木さんとの最初の出会いのきっかけです。
──開化堂が2年前に京都にオープンした「開化堂カフェ」にも、朝日焼の器が置いてありますよね。
そうですね。開化堂さんは、より多くの人が、伝統工芸に触れられる場所を作りたいという思いで、お茶だけでなくコーヒーも提供するカフェを始めることになったのです。同じお茶の世界でものづくりをしてきた朝日焼も、新しいコーヒーカップを作ってみようということで、ご一緒させていただきました。
──豊斎さんと開化堂の八木さんに共通するのは、自分の領域に閉じこもることなく、積極的に「フィールドを拡げる」という考え方ですね。
「伝統の引力」は結構強いものでして。ちょっと変えてみたかなと思うくらいでは、すぐに引き戻されてしまって、ほとんど変わらないんです。結構思い切って遠くまで飛んでみて、やっと違うものができるという感覚です。でも、もし駄目だったら元に戻ればいいだけですから、伝統工芸は新しいことに挑戦しやすい面もあるのです。
──朝日焼も抹茶盌から煎茶器へ、フィールドを拡げてきた歴史があります。
朝日焼は約400年前に茶盌を作り始めました。当時、煎茶の文化はまだ存在しなかったので、基本的にお茶といえば抹茶の時代です。最初は江戸時代に活躍した茶人・小堀遠州の指導のもとで作陶していたと伝えられています。
しかし、その後、京都は不況に陥ります。徳川家光の時代に、政治経済の中心が江戸へ移っていくなかで、文化も続々と移っていきました。その影響を受けて、朝日焼は厳しい時代を迎えます。四世から七世までは、宇治川の高瀬舟の仕事などもしたりしながら、なんとか細々と作陶を続けていたみたいです。
ただ八世の時代になると、京都で煎茶の文化が興りまして、それに合わせて朝日焼は煎茶器に挑戦します。おそらく当初は抹茶盌と同じ宇治の土で作っていたのですが、やがて磁器の技術が京都に伝わりまして、それを導入します。抹茶は色が濃いので陶器が合うのですが、色の薄い煎茶はやっぱり白い磁器に入れた方が、よりおいしく感じられます。磁器の煎茶器を作るようになって朝日焼は繁栄していきます。
九世からは少し余裕が出てきて、再び抹茶盌も作るようになります。だいたいどちらか片方に注力するのですが、朝日焼はどちらも作っています。
──抹茶盌と煎茶器を両方作っているところは珍しいのですね。作り方も全然違うものなんですか?
そうですね、まず陶器と磁器の違いがあるので。ただ、もっと根本にある思想も違うのです。「綺麗寂び」という表現を朝日焼ではよく使うのですが、抹茶盌は〈哲学的な美〉が求められます。一方で急須の方は〈用の美〉、つまり、シンプルで使い勝手がいいように作っていく中から生まれる美しさを大切にしています。
──八世が抹茶盌からフィールドを拡げて、作り方も思想も異なる煎茶器に挑戦した。そのおかげで400年間も朝日焼は繁栄してきた。十六世の豊斎さんにとって、朝日焼のフィールドを拡げたと思えるような作品は、すでに何かありますか?
それならGO ONに参加して最初に取り組んだプロジェクトで、デンマークのデザインスタジオ「OeO」と一緒に作った器のコレクションですね。朝日焼の良さをいかに他の形で表現するか。外部の視点を取り入れた初めての試みとなりました。朝日焼の伝統からすると、最も外側にあって、そこからさらに外側には、もうしばらく行かなくていいかなと思っているくらいです。
──その時は何を作ったのですか?
パーティ用のトレイと花器、それからカップを作りました。デンマークらしいカラフルな色合いですが、形はカップ&ソーサーのような欧州スタイルではなく、取っ手の付いていない「湯のみ」のような形です。
これまで朝日焼の茶器が興味の対象に入っていなかった方でも、少し気になって手に取ってもらいやすくなりました。いまでも結構引き合いはありまして、これがあることによって、朝日焼をより身近に感じてもらえるようにはなったかなと思います。
──私が購入したSferaの急須も、外部のデザイナーと一緒に作ったものです。
OeOとのプロジェクトで、初めて外部のデザイナーと一緒に仕事をしたわけですが、自分たちの技術と考え方をもって長年やってきたところに、異なる考え方を入れてみると、結構面白いものができるという気づきがありました。
朝日焼の急須は、150年以上作り続けているので、もう変えようがないくらい理に適った形なんです。これを自分の中で崩そうと思っても、崩す意味がないと感じてしまうくらいでして。それなら、朝日焼をリスペクトはしてくれてはいながらも、全く違う感覚で器をデザインできる人と一緒にやれば、また新しい形が作れるのではないかということで、Sferaの眞城成男さんにお声がけしました。
──Sferaの眞城さんとはどういう方なのですか?
もともと現代華道家として活動されていて、それからヨーロッパでデザインの仕事に携われて、やがて日本の伝統工芸と組んでさまざまなデザインプロジェクトを手がけるようになった方なんです。イタリアのミラノにもデザインスタジオがありまして、よく両国のあいだを行き来されています。日本の伝統的な価値観を大事にしつつ、西洋のデザインの歴史を理解し、ヨーロッパではいまどういう形のものが受け入れられているのかまで、肌で把握されています。それは一緒にやらせていただく上で大きな意味がありました。
──最初、眞城さんとはどこで知り合ったのですか?
GO ONの最初の活動としてインテリアデザインの国際見本市「メゾン・エ・オブジェ・パリ」に出展した時に眞城さんと出会いました。もともとGO ONの何人かはすでにSferaと仕事をしたことがありまして、Sferaが出展しているブースに、GO ONが間借りするような形で展示をしたのですが、そこで初めてご挨拶しました。ただその時は何かを一緒に作るという話には特にならなくて、その出会いから2,3年ほど経ったころに、あらためてお声がけしたところから始まりました。
──実際にSferaと一緒に作ってみていかがでしたか?
旧来の急須と比べて、より多くの手間がかかるので、Sferaの茶器の方が高い値段を付けているのですが、どちらの方がよりお茶を淹れやすいかというと、やっぱり旧来の方なんです。
ただ、いままでの急須は心に触れるものがなかった人でも、Sferaのデザインなら手に取っていただけるかもしれない。そういう機会が積み重なって、新しいお茶の楽しみ方が広がっていき、それを楽しむ人たちを育んでいくことにつながればという思いがあります。
やっぱりお茶の文化は朝日焼だけで作り出したものではなくて、これまでのさまざまな歴史の積み重ねがあって培われてきたものですので、その文化の流れに単に乗っかるようにして器を作って商売をする、というだけでは宇治の窯元としては十分ではありません。何かひとつでも文化の上に新たな価値を乗せて、育んで、次の世代につなげていく。それが私たちの使命だという思いをもって、このSferaの器を作りました。
──1年前には、さらに大きな空間へとフィールドを拡げて、shop & galleryをオープンしています。
茶器からフィールドをさらに拡張して、新しいお茶の文化を育んでいく拠点を作りたいと考えまして、朝日焼の茶器に理解のあるSferaに空間デザインをお願いしました。朝日焼の茶器を使って、宇治で採れたおいしいお茶をお淹れしています。単純に茶器を売るだけのことを考えれば無駄なスペースも多いのですが、やっぱりお茶と器、それから宇治の環境とを総合的に感じてもらえる場所にしたいということで、このような設えになりました。
──豊斎さんはイギリスのリーチポタリーに作陶に行かれていますが、どういうきっかけで行かれることになったのでしょうか。
そもそも私が行くことになったご縁は、約100年前に陶芸家のバーナード・リーチと濱田庄司がイギリスで窯を作ったところから始まっています。ただせっかく作った窯が壊れてしまったのです。そこで、私の曽祖父の弟にあたる松林靏之助が新しい窯作りを任されました。靏之助は日本各地の伝統的な窯を採寸して記録するという研究をしていたので、窯のスペシャリストとして知られていて、しかもちょうどイギリスに留学していたところでした。
リーチはとてもアーティスティックな人でしたので、弟子たちに哲学的なことは教えていたけれど、陶芸の技術はあまり教えていなかったようです。では技術は誰が教えていたかと言うと、実は靏之助だったそうなのです。
そうしたご縁もありまして、最初はリーチポタリーから私の父宛に作陶のお誘いが届いたのですが、そのころはすでに癌が発覚していたこともありまして、人生の残りの時間は宇治での作陶に充てたいということで、代わりに私が行かせていただくことになりました。私もいずれ朝日焼を継ぐにあたって、まだまだ自分には足りないものがあると思っていまして。いつもと違う場所で器を作るというのは、いいチャレンジの機会だと思い行ってみることにしたのです。
──リーチポタリーでは何を作ったのですか?
茶盌を作りました。朝日焼の看板を外しても、やっぱり自分は茶盌が作りたいことに気づいて、宇治から土を持っていって、向こうの土と混ぜ合わせてひとつの模様を作ることに挑戦したのです。実は今年その茶盌をウェールズの国立博物館が買ってくれまして、初めて私の作品がパブリックコレクションとして収蔵されました。異国の地で納得のいく茶盌が作れて、世間的な評価も得られたことで、襲名する前に自分の中でひとつ大きな自信につながった体験となりました。
──イギリスでは何かおもしろい出会いはありましたか?
バーナード・リーチには弟子が大勢いるのですが、そのなかでもいちばん有名なのはマイケル・カーデューでして。カーデューは作品ももちろん有名なのですが、のちにアフリカやアメリカに渡って、各所で陶芸を教えて回ったんです。
リーチポタリーは坂の上にありまして、南アフリカ人の工房長と一緒に坂を登っていた時に「ちなみに何で南アフリカからイギリスに来たの?」と聞いてみたら、「自分はマイケル・カーデューに憧れていて、だから来たんだ」って言うんです。これはとても面白い出会いだなと思いました。100年前に同じ場所で靏之助がマイケル・カーデューに陶芸を教えていて、その後カーデューが南アフリカに渡って陶芸を教えた。だから、いまその人は工房長になっていて、私も靏之助がイギリスに渡ったご縁で渡英をしたので。
人間ひとりが動くことのインパクトは、意外と大きいなとその時にあらためて思いました。やっぱり、ひとつの文化の中に閉じこもるのではなくて、異なる文化の中に自ら入って何かを得てくれば、その後さまざまな波及につながる。歴史の積み重ねの中で振り返ると、あたかも必然のように見えますが、その時々で「よし行ってみよう!」と実際にアクションとして起こせるか起こせないか。その違いは案外大きいことを実感しました。
──いまの豊斎さんが外部のデザイナーと一緒にやっていたから、朝日焼の後継者たちが、またどこかで影響を受けるということも、起こり得るかもしれないですよね。
ほんと、そうなったら面白いと思いますね。外部デザイナーとのコラボも、GO ONの活動も、やるか、やらないかでは、のちに何か大きな違いが出てくるかもしれない。そういう思いがあるからこそ、新しい器に挑戦し、さまざまなプロジェクトに関わっていこうという気持ちにつながっているのです。