衣服デザイナー・三宅一生の半生を描いた著書『イッセイさんはどこから来たの? 三宅一生の人と仕事』の出版を記念して、無印良品の有名なコピーを生み出したレジェンドが、BNLのインタビューに応じた。
「私たちの世代は戦争に放り込まれて、そのあとずっと苦労してきました。だから、社会が良くなければ幸せはないということが身に沁みているんです」
小池一子がコピーライターとしてそのキャリアをスタートさせたのは1950年代の終わりだった。敗戦から15年。人々はようやく暮らしの豊かさに目を向け始めていた。
60年代から70年代にかけて、ファッション、広告デザイン、現代アートの分野が花開いていった。もちろん自然に咲いたわけではない。「小池たちの世代」のクリエイターたちが一つひとつ積み重ねた実践が文化になっていった。そこには、「市民の衣服」を発想し開発した衣服デザイナーの三宅一生、グラフィックデザイナーとして出発しアートへと活躍の場を広げた横尾忠則、時代をひらく広告を数多く送り出すことになるアートディレクターの浅葉克己がいた。
昨年12月に刊行された書籍『イッセイさんはどこから来たの? 三宅一生の人と仕事』は、小池一子の筆によって三宅一生の半世紀が描かれた1冊だ。しかし懐古的な趣はなく、その時代その時代の熱が生き生きと映し出されている。常に時代の先端に立ち、時代をつくる仕事をしてきた小池に、社会とデザイン、社会とアートの関係について聞いた。
──三宅一生さんについて書くことになったきっかけは?
もともとは、ドイツのTASCHEN(タッシェン)から出版された『Issey Miyake 三宅一生』(2016年)のために書いたものです。企画された北村みどりさん(三宅デザイン事務所代表取締役社長)から依頼されて、私一人ですべて執筆することになりました。考えてみると、今でも夜中に三宅さんと電話で話したりすることがあるのね。それで、いい言葉があるとすぐその場でメモをするんです。チラシの裏でもなんでも、そのへんにある紙に書きまくる。
そんなふうに書き留めていたものもあるし、出会ったころから節目節目で共にした経験もあるし、そういうことを元に書けるかなと思いました。
──ジャーナリスティックな筆致で書かれていますが、同時代を並走した小池さんならではの思いが行間ににじんでいるように感じました。
仕事をし始めてすぐのころ、自分も駆け出しのエディターでライターだったときに、三宅さんが素晴らしいデザイン学生のタマゴとして登場してね、出会ったときの鮮烈な印象はずっと変わらないんです。
本の中にも「"一生さん"は太陽系のどこかからやって来たのかも」というようなことを書きましたが、三宅さんはどこかエイリアンの目でものごとを俯瞰している感じがあります。精神的ノマドというのかな。外側の視点をもっている。だから「日本とは/日本人とはこういうものだ」という思い込みから自由でいられるわけですが、それは「欧米と比べて日本は」という狭い視野ではなく、宇宙的な広がりの中で見ているからこそもてる発想なんだと思います。そういう広い意味での批判精神への共感は大きいかもしれないですね。
60年代70年代にオートクチュールからプレタポルテへのシフトが起きたときも、「普通の人が着る1枚のシャツを素晴らしいものにする」という考えをもっていた。そのころすでに「市民のシャツ」と言っていましたが、そういうものづくりを日本で行うことを、三宅さんは初めから考えていました。
──一方でお聞きしたいのは、それから40年がたち、日本は長い不況も経験しました。「質より安さ」という人たちも増えています。そういう人たちに何をどう届けるのか。この本だって、もっとカジュアルな装丁にする選択肢もあったのではないでしょうか。
何をもって「質がいい」とするかは、一人ひとりのものの考え方になるのだろうと思います。でもね、この本、一見贅沢に見えますが、持つと軽いでしょう?
──たしかに。軽いです。
価格も、文庫本のように数百円というわけにはいきませんが、それほど高くはないはずです。
──活版印刷で、カラー図版がこれだけ収録されて、箔押しの美しい表紙でこの値段は安いと思いました。
日本語は縦書きで、活版印刷で読みたいというのは私のわがままなんですが(笑)、それを浅葉さんが受け止めて、適切な紙を選んでくれて、横尾さんも快く自分の絵を提供してくださる。価格も適正な範囲で抑えている。
──隅々まで考え尽くされている。
そういう意味で、幸せな本が誕生したと私は思っているのね。人のつながりの中から生まれてきた。もうすぐ始まる森岡書店(東京・銀座)の展示では、横尾さんによるイッセイ ミヤケ パリ・コレクションの招待状の実物が展示されますが、ああいうものが生まれたこと自体にもそれを感じます。三宅さんの「自分はこういう服を世界に提案したいんだ」という思いを聞いて、横尾さんがその先の世界をつくっていくわけでしょう。そういう、なんていうんでしょうね、同時代に生きているクリエイター同志の共感みたいなもの。
60年代には田中一光さんや永井一正さんの世代が活躍されました。私たちの世代は60年代に力をためて、70年代に実際の仕事として開花させていった。経済もものすごく上昇していった。ああいう時代はもうおそらくないと思うわね。私たちは本当に幸運というか、稀有な時代を生きてしまったということは思いますよね。
──私たちは多かれ少なかれ、その時代に生まれたものを受け継ぎながらものをつくっていると思います。
そうですよね。
──小池さんには、今という時代はどう見えているのでしょうか。
古いと言われるかもしれませんが、「市民による社会」というものがきちんとなければいけないのではないかという思いはあります。私たちの世代は戦争に放り込まれて、その後ずっと苦労してきました。だから、社会が良くなければ幸せはないということが身に沁みているんです。そういう観点で見ると現在は、経済に偏ったり、個人主義ばかりになっているように思えます。英語でgreedy(貪欲な、ガツガツした)と言うでしょう? どんどんそれが増している。一方で子どもたちの貧困が広がっている。市民がきちんと、気持ちよく生きられる社会であってほしいということは、いつも思っていますね。
──「きちんと、気持ちよく生きる」というコンセプトは、小池さんのお仕事の中では「無印良品」にもっともよく現れているような気がします。今や「無印良品」は私たちの暮らしのスタンダードの一つになっています。
そうだといいんですけどね。やはり、何か「デザイン」をしようとすると、本来目指していたベーシックというところからちょっと浮きそうになるんです。ベーシックとは地面みたいなものですから、そこから足が離れてはいけない。もちろん商品をつくる過程で形態をどう美しくするかということは考えますが、美しさが最上位にあるわけではありません。今の(株式会社良品計画)会長の金井(政明)さんという人が面白くて、彼が「感じ良いくらし」ということを言い出しているんです。「みんなが感じ良い生活をすると、社会全体が感じ良くなるね」と。個人の生活を良くすることからSocial Goodにつなげていこうという、今そういうところにいるんですね。
──その姿勢は「くらしの良品研究所」のコピー、「くりかえし原点、くりかえし未来」にもよく表れていますね。
これも、当時社長だった金井さんから「ものづくりだけでなく、それを支える基本的な概念を伝えるための研究所をつくるから、そのためのコピーを書いてほしい」と言われたんですね。それで、無印のマーチャンダイジングの原点を言葉にしました。
コピーライティングも初期の仕事で出合った領域ですが、コピーライターはビジュアルコミュニケーションの世界に言葉の立場から関わります。その知識と経験を自分の中に蓄えることができたのはとてもよかった。
私はその後、アートの仕事へとシフトしたんですが、面白いのは、いろんな企画が頭に浮かんでモヤモヤしている状態があるでしょう? それがだんだんまとまってくるわけですが、きちんとした像を結ぶのはやはり展覧会タイトルが決まったときなんです。だからタイトルをつくるのがすごく好きで、それはコピーライタースピリットからきているのかもしれない。
──1983年に日本で最初のオルタナティブなアートスペース、「佐賀町エキジビット・スペース」を東京・江東区に開設されました。
最初の展覧会は「マグリットと広告」だったのですが、「これはマグリットではない」というサブタイトルをつけました。「これはパイプではない」と言いながらパイプの絵を描いたマグリットですから、概念を覆すとか疑いを持たせるということを主題にしたかった。問いを投げるようなことはずっと好きですね。
──その後もキュレーターとして多くの新進アーティストを紹介されました。2016年からは十和田市現代美術館の館長を務めています。
実際に関わり始めたのは、町の活性化プランにアートを取り入れようという計画が持ち上がったころなので、2005年くらいです。十和田は、文化的な伝統や歴史的な建物が残る青森や弘前、八戸などとは違って、19世紀後半に開拓民によってつくられた町なんです。だから私は直感的に「新しい美術が合う」と思いました。その気持ちは今も変わっていません。
──今年の春には、インターネット・アートの第一人者として知られるラファエル・ローゼンダールの美術館初個展が十和田で開催されました。
彼の作品も本当に素敵でね。批評家たちは彼が日本美術をよく勉強していると言うんだけど、私は1970年代の日本のグラフィックデザインをものすごく勉強したと思っているんです。田中一光さんや永井一正さんや福田繁雄さんじゃないかと思っちゃうぐらいに。彼にそう言ったらニヤッとしていましたけど(笑)。日本のグラフィックデザイナーたちの仕事の最良の部分が、彼の中を通って濾過されて出てきているように私には思えました。しかもあの展覧会のタイトルは「ジェネロシティ 寛容さの美学」というんですが、新しいインターネットは制約の多かった古い時代と違って「寛容さ」がキーなんだと彼は言うんですね。そこから生まれてくるビジョンが美しいものであるということが、すごくうれしかった。
──館長としてより深く十和田と関わるようになって見えてきた課題はありますか。
やはり、町の環境に美術館がどれぐらい溶け込めているかという点は、開館から10年経った今もまだ課題です。それには、美術館だけが目立ってもしょうがないんですね。町も共にいい感じになっていかなければ。
でも最近、アメリカ人が2人移住してきて、町の中にスペースをつくったんです。自分たちはそこで仕事をしながら、美術館のカタログや何かを置いて自由に読めるようにして。青森から移住してきた若いカップルがカフェを始めたり。ああいうのがもっといくつもあるといいと思うんですけどね。「佐賀町エキジビット・スペース」をつくったときにすごく思ったんですが、いいアート作品を見たあとって、疲れるでしょう?
──はい。ぐったりすることがあります(笑)。
あれ、Museum fatigue(美術館疲れ)って言うのよね。ちょっと座っておいしいコーヒーを飲んだりパンを食べたりしながら、見たものの印象を話したりしたくなる。「佐賀町エキジビット・スペース」はビルの3階にあったんですが、ビルのオーナーに相談して、1階の一部屋を借りてカフェにしたんです。十和田にも、アートの疲れを癒やせるような憩いの場は必要ね。
東京をはじめ日本全国から多くの方にいらしていただいていますが、地元の人にもっともっと来てほしいと思っています。町の人たちのお祭りにかける時間とお金と労力に比べたら、アートの浸透度合いはまだまだ、肌身についていないというのかな。敷居の高いものと思われている気がします。
ですが、優れたアーティストはたった一人でも観客を巻き込み、考えさせることができる。社会を変える起爆剤になることがある。それがアートの本当の力だと私は信じています。アートの熱を町のあちこちに飛び火させたい。そこはもっともっと努力することができると思っています。