BNL History

オムロン創業者・立石一真と、5人の〈出会い〉の物語

「オートメーション」に国内でいち早く注目し、世界に先駆けて自動改札機や銀行ATMを開発したオムロン。その成功の背景には、創業者・立石一真が困難に直面したときに偶然出会った、5人の人物がいた。

大企業の創業期を振り返り、〈出会い〉に注目した物語の連載「BNL History」。

初回のヤマハに続く第2弾は、自動券売機やATM、自動改札機など、国産初、あるいは世界初のプロダクトを数多く発明し、オートメーションやサイバネーションの先進技術によって日本経済の発展を支えてきた企業、オムロンを紹介する。

いまやグループ全体で約36,000人の従業員を抱え、年間8,600億円を越える売上高を記録する大企業だが、創業当初から順風満帆でここまで来れたわけではない。大きな試練に直面するたびに、偶然の出会いが奇跡を生んできた。

創業者の立石一真が出会った5人のストーリーを中心に、その歴史を紐解こう。

トップ画像は、自動改札機を通るオムロン創業者の立石一真。(写真提供=オムロン株式会社)


〈出会い〉その1:「レントゲンタイマー」の可能性を教えてくれた、同級生の権藤豊

1921年に熊本大学工学部の前身である熊本高校工業学校の電機科を卒業後、立石一真は兵庫県庁の土木課に入庁した。しかし、長期出張中に芸者遊び等の豪遊が問題視され、わずか1年4ヶ月で辞めることに。

その後、縁あって京都の井上電機製作所に入社。ショートを防ぐために電圧や電流が一定以上にあがると切れる「継電器」を考案するなど、電気技師として活躍していたのだが、今度は上司に恵まれず、1930年に退職を決意する。

当時は不況真っ只中。就職口は簡単には見つかりそうになかったので、立石は自ら開発した製品を売って一旗上げようと考えた。

最初に商品化したのは、現代のズボンプレッサーにつながる発明品である「ズボンプレス」だった。しかし、京都ではなかなか売れず、大阪まで自転車で往復7時間もかけて通うことで、なんとか食いつないでいた時期もあったという。

次に開発した出刃包丁も研げる「ナイフグラインダー」の販売も行き詰まっていた。そんなとき、久しぶりに同級生に会いに行ってみたところ、病院に高性能な「レントゲンタイマー」のニーズがあることを知る。日経新聞の人気連載「私の履歴書」で立石は当時をこう振り返る。

昭和7年(1932年)を迎えたころ、地元京都で現金取引の原則がくずれ、ナイフグラインダーに好転の兆しはなく、私は次第に専門の電気を恋うるようになった。そんな夏のある夜、何かいい仕事はないものかと東山五条に住む同級の権藤豊君を訪ねた。島津製作所でレントゲン販売をやっていた男だが、私の話を聞いた途端にレントゲン撮影用のタイマーの優秀なもの──20分の1秒の撮影のできるタイマーができたらきっと売れると耳よりな話をしてくれた。当時のタイマーはゼンマイ式で20分の1秒という瞬間撮影ができず、胸部撮影のときなど、心臓の鼓動で動くのでぼけてしまい鮮明な写真がとれずに困っていた。

その話を聞いた途端、私には「これはいける」とピーンときた。というのは井上電機時代に没頭した誘導形継電器を少し工夫するだけで20分の1秒程度のタイマーができるはずだと、ひらめくものがあった。

私の履歴書──第17回 X線撮影タイマー すべてを独力で作る 肩にかつぎ日生病院に納入

立石が製作したレントゲンタイマー。(オムロン・コミュニケーションプラザにて筆者撮影)

さっそく開発に取りかかり試作品のレントゲンタイマーを完成させた立石は、運よく友達の紹介により大阪の日生病院でプレゼンの機会を得る。

病院のレントゲン装置に試作品をつないで行った写真撮影の実地試験は一発で成功し、その場で納品が決定。島津製作所をはじめ専門メーカーが取り組んでも作れなかった高性能なレントゲンタイマーの開発に成功する。

その後、日生病院の担当者だった物理療法内科部長の西岡博士が、大日本レントゲン製作所の社長を紹介してくれた。トントン拍子で、同社のレントゲンに立石のタイマーを取り付けてくれることになり、いわゆるOEM(相手先ブランド製造)契約が成立。安定した収益が見込める道筋が立った。

京都に住んでいては何かと不便になるので、大阪の大日本レントゲン製作所の近くに木造四軒長屋の一戸を借り、妻と生まれたばかりの長男、そしてわずか2人の従業員とともに移住する。1933年5月10日、一真33歳。この日が「立石電機製作所」の創業記念日となる。


〈出会い〉その2:米国で「マイクロスイッチ」の現物を入手した、同窓・安達君の弟

次の転機は1941年秋に訪れた。東京帝国大学航空研究所の井上教授から、アメリカの航空機に多く使用されている「マイクロスイッチ」というものを作ることはできないか、と相談を持ちかけられたのだ。

軍用機に採用されれば大きな収益源になると見込んで引き受けてみたものの、アメリカで製造された現物や資料の入手は困難を極めた。

途方に暮れていた立石は、再び人のつながりによって救われる。貿易会社に務めていた同窓の安達英一の弟が、アメリカのシカゴにいることを小耳に挟んだのだ。さっそくマイクロスイッチの現物とカタログの入手を依頼したところ、その3ヶ月後には手元に届いた。

日本は1941年12月8日に太平洋戦争に突入する。もし安達兄弟の協力が得られていなかったら、おそらく入手は間に合わなかっただろう。

1940年代に開発されたマイクロスイッチ。(オムロン・コミュニケーションプラザにて筆者撮影)

現物とカタログを参考にして、途中いくつもの試練を乗り越えながら、立石のチームはマイクロスイッチの開発に成功する。残念ながら戦局の悪化により、期待していた軍用機への採用は実現しなかったが、この技術はのちに世界初の「無接点スイッチ」の開発へとつながり、オートメーション時代の飛躍の原動力となる。

しかしその前に、倒産の危機を乗り越える必要があった。


〈出会い〉その3:「オートメーション」時代の幕開けを伝えてくれた上野先生

戦後、GHQの後押しもあり、多くの企業に労働組合が設立された。立石電機も例外ではなく、賃上げ交渉から始まり、大争議へと発展。結果、京都製作所は閉鎖に追い込まれる事態となった。さらに、GHQ経済顧問のジョセフ・ドッジが単一為替レートを設定した「ドッジ・ライン」に端を発する「ドッジ不況」(安定恐慌)のあおりを受け、立石電機製作所は倒産の危機に追い込まれた。

その間、250人いた組織はわずか33人に。立石は協力工場や仕入先を訪問して、債権の棚上げをお願いしてまわった。さらに残った社員全員で、当時の主力商品であった保護継電器を担ぎ、決死の思いで営業した。

1930年代に開発された保護継電器。(オムロン・コミュニケーションプラザにて筆者撮影)

全員セールスによる保護継電器の売り上げによって、なんとか倒産の危機を脱することはできたものの、それだけではとても事業を大きく成長できる見込みはなかった。そんな時に立石が出会ったのが、産業能率大学の創設者で、日本で最初の経営コンサルタントとして活躍した上野陽一である。

1952年に上野先生の講演でこんな話を聞いたという。

「戦時中、アメリカにオートメーション工場というものができている。その工場には作業員が一人もいないのに、材料を供給してやると、立派な製品となって出てくるという、素晴らしく進歩した工場がある。これからの商品は、こんなオートメーション工場でつくられるように設計しなければならない」

『「できません」と云うな』湯谷昇羊(著)

1952年に米フォード社は、機械が自動でエンジンを組み立てるオートメーション工場「Cleveland Engine Plant」を稼働したばかりだった。上野陽一はこのニュースを真っ先に日本に伝えたのだ。この動画はフォード社が制作した当時の採用動画のようである。エンジン工場内の撮影は14:40あたりから始まる。

立石はこの「オートメーション」という言葉に妙に惹かれた。その日から約1年間、入念に情報を集めたのち、満を持して全社員に号令を発した。

「わが社はこれより、オートメーションに進出する!」

1955年から立石電機はオートメーション機器の本格的な営業活動を開始した。保護継電器を作っていた関西の中小企業から、日本経済の発展を支える大企業へ飛躍していくきっかけとなるこの年は、のちに"オートメ創業元年"と社内で呼ばれるようになったという。


〈出会い〉その4:「サイバネーション」の可能性や健康工学について学んだ西先生

倒産の危機に直面していたころ、妻の元子が癌に侵された。当時、必死になって治療法を探って辿り着いたのが、のちに現代医学に革命を起こしたと言われる「西式健康法」の創始者、西勝造である。

結局、妻の命を救うことは叶わなかったのだが、このときの西先生との出会いが、のちに会社の未来を担う有益な情報の入手へとつながる。

それは1952年のある日のことだった(奇しくも上野陽一先生の講演と同じ年だった)。月に1回開かれていた西先生を囲む会で、先生はいきなりマサチューセッツ工科大学ノバート・ウィーナー博士の新著『Cybernetics』の海賊版を、ゴソゴソとカバンから取り出し、こう告げたという。

「実はいまアメリカで、『サイバネティックス』という新しい科学が生まれて大問題になっているのです」

上の2冊は西勝造が著した健康法に関する本。左下がウィーナー博士の『Cybernetics』。右下は上野陽一の著書『経営作戦』である。(オムロン・コミュニケーションプラザ展示写真を筆者撮影)

この本が出版されたとき、アメリカの労働組合は猛反発した。もしその科学が応用されると、人間がいらなくなり、労働者はみな失業の憂き目をみると捉えてしまったからだ。そのため再版は不可能となり、日本ではほぼ入手できなくなってしまったため、有志100人ほどが集まってガリ版刷りの海賊版を作ったのだ。そのうちの1冊が西先生の手元に渡っていたのだった。

本の内容について立石が抱いた印象は、アメリカの労働組合の反応とは異なるものだった。

とにかく数学、科学、電子工学、通信工学、生理学、心理学など、十五ほどの学問をマスターしていないと解明できない難しい本だとのことであった。一種の制御科学であるが、これからの複雑な制御系においては、工学以外の生理学や心理学の助けを借りなければ本質的な問題の解撤は望めない、というのが基本的な考え方になっているようだった。

それは、いかに科学技術が発達し高度化されたとしても、それを駆使するのは人間であり、またシステムとして考えたとき、いかにすぐれたシステムでも、人間の介在をなくすことはおそらく不可能だということを意味していた。そこに、機械に対する人間の尊厳がある。

「人間を最も人間らしく遇する道は、その介在をなくすことのできない仕事だけを人間に残して、機械にできることはすべて機械にやらせることである」というウィーナー博士の言葉も、そこから生まれたものと思われる。つまり、機械にできることは全部機械に任せて無人化し、思想や創造といった人間でなければできない仕事を人間がやる。それが最も人間らしい仕事である──という思想であった。

『永遠なれベンチャー精神』立石一真(著)

このサイバネティクスを応用して、1963年に立石電機はオートメーションとコンピューターを組み合わせた「サイバネーション」という新技術を開発し、今日でもわれわれの生活に欠かせない自動券売機が誕生した。さらに技術転用によって、自動改札機や交通管制システム、銀行ATMの開発にも成功する。

1973年に製造された立石電機製の自動改札機の断面。日本機械学会より機械遺産に認定されている。(オムロン・コミュニケーションプラザにて筆者撮影)

さらに、立石は西式健康法をヒントに、人間をひとつのオートメーション工場と仮定し、サイバネティクスを生体に応用することを思いつく。病気を患ってからではなく、常日ごろから誰もが健康度合いを測定できるようにするために、一般向けの血圧計や温度計、体重計などを開発した。

法人向けのプロダクトが多いなか、一般消費者にとって「オムロン」ブランドと言えば、これらの製品を想起する人も多いのではないだろうか。

1970年代に開発された血圧計。(オムロン・コミュニケーションプラザにて筆者撮影)


〈出会い〉その5:赤字転落からのV字回復を導いた経営コンサルタント、大前研一

オートメーションとサイバネーションの時代を先取りした立石電機は大きく成長した。しかし、後発で参入した電卓事業で大ゴケ。25年ぶりの赤字に陥ってしまった。

この窮地を救ったのも、また新しい出会いだった。出会った相手である大前研一は、プレジデントオンラインの連載、大前版「名経営者秘録」にて、次のようにその出会いの日を振り返る。

立石さんと私の縁結びの神様は、『企業参謀』の出版に尽力してくれたプレジデント社の守岡(道明)部長だ。当時、立石さんもプレジデント社から『わがベンチャー経営』という本を出版していて、「我が社の共通の著者」ということで守岡さんが立石さんと私を引き合わせてくれた。

立石さんの会社はもともとスイッチ、タイマー、リレーなどの電子部品の会社である。シャープやカシオと競って電卓でヒットを飛ばしたが、その後の過当競争と石油ショックで赤字に陥っていた。それで「大前研一を紹介してくれ」という話になり、守岡さんが立石さんをマッキンゼーの東京事務所に連れてきたのである。

私は立石さんに「企業参謀を作るなら、会社の将来を背負って立つような若手を7人ぐらい集めて欲しい」という話をして、同時に高額なコンサルタントフィーを提示した。

しかし立石さんは「わかりました」の一言で、すべてを飲み込んだ。後で誰かから聞いた話だが、立石さんは「かかる医者は高いほうがよく効く」と言っていたという。

大前版「名経営者秘録」(2)-立石一真さんの「わかりました」

大前は、「将来トップを担えるような若手の優秀な人材を集めてほしい」と言って、経営改革委員会を設置。立石家三男の義雄を委員長に据えて、事業の「選択と集中」を押し進めた。8年の歳月を費やして推し進めてきた電卓事業からは、ついに撤退することになった。

今回の参考文献は『週刊ダイヤモンド』元編集長・湯谷昇羊がまとめた『「できません」と云うな - オムロン創業者立石一真』 (新潮文庫)と、立石一真本人が執筆した『永遠なれベンチャー精神 - 私の実践経営論』(ダイヤモンド社)。(書影はBNL編集部撮影)

改革の結果、1年半後には黒字に復帰できた。さらに1年後には史上最高益を記録。1979年には売上高1011億円を達成し、京都で初めての1000億円企業となった。大前の勧めを受けてその年、立石は社長を退き、会長に就任した。

ズボンプレスの開発から始まった立石の創業人生は、ここで大きな区切りが付いた。その成果を大前は次のように評している。

1900年(明治33年)生まれの立石さんは、50歳を過ぎてから従業員を100倍、売り上げを1000倍にして、倒産寸前まで追い込まれていた町工場を世界企業へと飛躍させた。松下幸之助さんや盛田昭夫さん、本田宗一郎さんらに匹敵する大経営者であり、「50を過ぎて事を成したのは伊能忠敬と立石一真だけ」と私は評してきた。

大前版「名経営者秘録」(2)-立石一真さんの「わかりました」

だが、もしあのとき同級生の権藤君を訪ねていなかったら、安達兄弟がマイクロスイッチの入手に協力してくれていなかったら、上野先生や西先生の講演を聞いていなかったら、プレジデントの守岡さんが大前さんを紹介してくれていなければ...。今日でも外国人観光客が驚くほど高性能な自動販売機や、安心安全で高い品質が売りのメイドインジャパン製品を作れる工場はなかったかもしれない。

出会う、が、世界を変えたのだ。