BNL History

オルガン修理と11歳の天才技術者──偶然の出会いの連続だった、ヤマハ創業物語

「出会う、が、世界を変えてきた」をテーマに、歴史を動かしたビジネスの出会いを特集する新セクション「BNL History」がスタート。初回はヤマハ。創業者の山葉寅楠に、米国製オルガンの修理と11歳の天才技術者を紹介した、樋口林治郎を中心に創業の歴史を紐解く。

BNL Historyスタート

いま世界中にビジネスを展開するグローバル企業も、最初は小さな"スタートアップ"だった。

ずっと順風満帆で大きくなった会社などない。必ずどこかで大きな障壁を乗り越えた瞬間がある。歴史を辿れば、そのイノベーションの契機には、偶然の出会いがあるのではないか。

新セクション「BNL History」では、さまざまな企業の歴史を紐解き、ビジネスにおける、人と人の出会いの価値に焦点を当ててみたい。

Top Photo: "cloud carpet 2017 May 17" by GP Witteveen (CC BY-NC 2.0)


明治のコネクター・樋口林治郎

いまや世界のトップピアニストも愛用する一流のピアノブランドである「YAMAHA」だが、その始まりは、明治時代に浜松の小学校で故障してしまったオルガンの修理が、たまたま近くの病院で医療器械の修理を生業にしていた山葉寅楠に託されたことがきっかけとなる。

日本初の国産ピアノの製造に挑戦した時には、最も困難なパーツの設計を任されたのは、11歳で入社し、当時まだ14歳だった天才技術者、河合小市だった。(彼はのちに独立して、いまの河合楽器製作所を創業する)

寅楠の人生を一変させたオルガンの修理。そして、国産ピアノの開発に欠かせない存在となった小市の入社。その歴史が動いた出会いに、どちらも同じ仲介者が関わっていたことは、あまり知られていない。

故障したオルガンがあった小学校を幹理する立場にあって、やがてヤマハの副社長を任されることになる樋口林治郎。歴史の表舞台には登場していないが、人と人をつなぐことから、日本初の国産オルガンと国産ピアノの開発を、影で支えた人物に注目してみたい。

山葉寅楠がオルガンの修理を行った浜松市立元城小学校(当時は浜松尋常小学校):明治六年に開校。浜松市内で最も長い歴史のある小学校だったが、近隣の中部中学校及び北小学校との統合により、2017年3月に閉校している。 Photo: Hamamatsu city Motoshiro elementary school 20161014 by General s 46 (CC BY-SA 4.0)

オルガンとの出合い

明治17年(1884年)当時は、まだ子どもが家の仕事を手伝う家庭が多く、不就学者が多かったため、生徒の登校を促すなど、学校の運営を幹理する仕事を担う「学務委員」という職があった。樋口林治郎もそのひとりで、浜松城跡地に開校した浜松尋常小学校を管轄していた。

そんなある日、小学校に米国製のオルガンがやってきた。初めて耳にする西洋の美しい音色に、生徒たちは瞬く間に魅了されたことだろう。校長先生は自らオルガンが置いてある教室の鍵を管理していたそうである。

しかし、わずか2ヶ月で故障してしまった。

当時、オルガンはすべて輸入に頼っていたこともあり、仕組みを理解している人は周りに誰もいなかった。音が鳴らない原因はわからず、修理を頼める人も見つからないなか、校長先生は困り果てて樋口に助けを求めた。

樋口は、浜松病院の院長、福島豊策に相談してみたところ、「うちの医療器械を直してもらっている人なら直せるかもしれない」と、ある人物を紹介してくれた。それが山葉寅楠だった。

山葉寅楠:日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)創業者。嘉永4年4月20日(1851年5月20日) - 大正5年(1916年)8月8日。日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の創業者。日本における初期のオルガン(リード・オルガン)製造者の一人であり、日本のピアノ製造業の創始者の一人でもある。

山葉寅楠の地元は浜松ではない。父親は紀州(現在の和歌山県)徳川藩士だった。寅楠は17歳の時に武士を棄て、親元を離れ、大阪で時計商の徒弟になる。そこで懐中時計に魅了され、自分でも作ってみたいと考えるようになり、製造技術を学ぶために長崎へ移住。イギリス人の時計技師から製造技術を学び、ついでに医療器械の技術もマスターした。

しかし、大阪に戻って時計作りの事業計画を立てるも、資金不足のためにあえなく断念することに。代わりに大和高田で時計商の店を開業するが、こちらもなかなか軌道に乗らない。結局、大阪に戻って医療器械店に出入りし、医療器械の修理を請け負う仕事を続けていた。

33歳の時、そんなパッとしない人生に転機が訪れる。

たまに医療器械の修理のために地方出張もしていた寅楠は、静岡県の浜松病院を訪ねた際に、先の福島院長と出会い、この地に移り住むことを決意する。

当時の浜松は、人口わずか2万人弱の小さな町。大都会の大阪と比べたら病院の数も少ない。ということは医療器械修理の仕事もあまりない。ただ、そうした不安要素を払拭できるほど、浜松という町に魅力を感じ、福島院長の人柄にも惹かれるところがあったのだろう。

自分なら、同じものを3円で作れる!

このあたりで、小学校のオルガン修理に話を戻そう。寅楠は福島院長の推薦を受けて、浜松尋常小学校を訪ねた。途方に暮れていた校長先生をはじめ、相談に乗った樋口や、推薦をした福島院長の期待も背負って、故障したオルガンと初めて対面する。

これまで時計製造や医療器械修理で培った器用な手つきで少し分解してみたところ、原因はすぐに解明できた。バネが2本破損していたのだ。寅楠にとってバネの修理は決して難しい作業ではなかった。だが彼はすぐに直そうとはしなかった。「一度すべてを分解してみれば、自分でもオルガンを作れるのではないか」と思い立ったからだ。

当時、日本はオルガンを作る技術はなく、すべてアメリカ製のものを輸入していた。その頃の物価で45円だったので、いまなら4500万円といったところだろうか。それを「一度全部分解してみたい!」と急に言い出した寅楠の行動を校長先生はよく許してくれたものだ。

とにかくオルガンを隅々まで分解した寅楠は、詳細な設計図を描いて、元通りに組み立て直して、このように豪語したと伝えられている。

「自分なら、この程度のものは3円もあれば作れる!」

1890年(明治23年)東京上野で開催された第3回内国勧業博覧会において受賞した有功二等賞碑のコピーが貼り付けられたオルガン。山葉寅楠が受賞を記念して知人に寄贈したもの。Photo: "Yamaha organ 1890" by Hoku-sou-san (CC-BY-SA)

オルガンを作る資金がない

設計図はできた。1台3円で作れるという謎の自信もある。だが寅楠には試作品を作るための資金がなかった。浜松には頼れる親戚はいないため、近所を訪ね歩き、事業の可能性を語って資金援助を求めた。

何日も断られ続けた後に、ようやく出会えた理解者が、飾り職人、小杉屋の河合喜三郎だった。寅楠の熱意を買って、必要な資金を提供することにしたのだ。それだけでなく、小杉屋の一部を仕事場として貸して、寅楠を全面的にバックアップした。

なぜ、喜三郎はそこまでして、寅楠を援助しようと思ったのだろうか。今風に言うと、きっと寅楠の「ミッション」に共感できたからではないだろうか。「なぜオルガンを作るのか?」と聞かれると、寅楠は、次のように語っていたと伝えられている。

「近い将来、オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」

当時は唱歌教育が始まったばかり。やがて日本全国の小学校でオルガンが必要になる時がきっと来る。その時、学校は国産のものを選ぶことができなければ、輸入品でコストがかさむ上、貴重な国家予算が外貨に流出してしまう。日本全国の音楽教育発展のためには、国産オルガンの開発は絶対に成功しなければならない。そう寅楠は信じていた。それが、のちにさまざまな人と出会い、協力を得られた最大の理由ではないだろうか。

静岡県令に紹介された音楽取調所の伊澤修二

寅楠と喜三郎は、日本で手に入る素材を苦心して調達し、2ヶ月後になんとか第一号の試作品を完成させた。しかし、鳴らしてみてもあまりいい音がしない。これでは売り物にならなかった。

静岡県令(いまの知事)の関口隆吉に相談したところ、東京の音楽取調所(東京芸術大学音楽部の前身)の所長を務める伊澤修二のところへ試作品を持って行って、御意見を伺ってみてはどうかと紹介状を書いてくれた。音楽取調所は、伊澤がアメリカに留学し、音楽教育の必要性を説いて明治20年に設立した、唱歌の作成・編さんと教師の養成機関である。浜松からは約250kmもある。しかも箱根を越える険しい山道だ。しかし、大きな壁にぶつかっている彼らにとって他に選択肢はない。ふたりでオルガンを抱え、決死の覚悟で東京を目指した。

伊澤に試作品のオルガンを見せたところ、案の定、不合格。一応オルガンの形にはなっているが、音が全然なっていないという評価だった。寅楠も喜三郎も音楽の知識はない。ある意味当然の結果だった。そこでふたりは伊澤に熱心に頼み込み、音楽取調所の特別聴講生として調律や音楽理論について学ばせてもらえることになった。

浜松に戻ると、ふたりはさっそく学んだ知識を活かして試作品を製作し、再び箱根の山を越えて伊澤の下に持参した。すると、今度はなんとその場で認めてもらえたのだ!

日本初の国産オルガンを購入した記念すべき最初のお客さんは、いきなり5台も注文してくれた関口県令だった。やがて全国各地から次々と注文が入ってくるようになる。実は伊澤が喜んで「ついに国産のオルガンが完成した!」とみんなに言いふらしていたらしい。いわば国家のお墨付きが与えられた状態となり、口コミは瞬く間に広がっていった。

今回の参考文献は『浜松ピアノ物語〜浜松のピアノが世界に認められた日』(しずおかの文化新書)と、『ヤマハの企業文化とCSR』志村和次郎・著(産經新聞社の本)。本の中では、寅楠亡き後のピアノ業界の発展や、ヤマハの隆盛についても詳しく紹介されている。

オルガンの次はピアノ

全国各地から舞い込んでくる注文に対応できる体制を整えるために、寅楠と喜三郎は合資会社「山葉風琴製造所」を設立し、技術者の採用を進める。この時、資金面で全面的に支援したのは、福島豊策と樋口林治郎だった。

やがて新工場を建設して設備を増強し、創業後わずか1年余りで、従業員は100人を超える規模にまで拡大していた。

当時、河合小市は技術者の中でもひと際目立っていた。若いからという理由だけではなく、技術者としての天性の才能を備えていたからだ。小学校を卒業したばかりの小市を、寅楠に紹介したのは樋口林治郎だった。小市は、たまたま樋口が学務委員を務める浜松尋常小学校に通っていたのだ。

小市は尋常小学校四年を卒業して間もなくのある日のこと、外を走る客馬車に見入り、木切れを集めて見事に小型の客馬車を作り上げ、犬にひかせて乗り回って大人たちを驚かせていました。樋口はそんな小市に話しかけ、将来の夢を聞いたところ、「音の出る器械を作りたい」という小市の希望がわかり、山葉に紹介することにしたわけです。

『ヤマハの企業文化とCSR』志村和次郎・著(産経新聞社の本)

小市が入社した年に、合資会社から株式会社の形態となり、社名も「日本楽器製造株式会社」になった。その時、樋口林治郎は副社長に任命され、経営にも加わるようになる。

資金調達に成功すると、寅楠は真っ先に国産ピアノ製造の挑戦をスタート。伊澤の取り計らいによってアメリカへ渡り、部品や工作機械を買い付ける旅に出た。旅立つ直前、寅楠は河合小市に「アクション」の開発を託した。鍵盤を押すとハンマーが弦を打つ仕組みであるアクションは、国産ピアノの完成に必要不可欠であり、最も開発の難易度が高いパーツだった。

大役を命じられた小市は、文字通り不眠不休で製作にとりくみ、ついに自分の手でアクションを作り上げます。アクションができたのは山葉が米国から帰国する寸前でした。浜松駅で汽車を下りた山葉はいち早く、河合小市を探したといいます。「できました。アクションができました」そう報告した小市の手を、山葉寅楠は深い感動で握りしめました。

やがて、山葉がアメリカで買った部品や機械、道具類も到着し、小市のアクションを使った国産ピアノ第一号が明治三十九(一九〇〇)年一月、山葉の見守る中で完成しました。時に親子のような師弟の二人、山葉は四十八歳、小市はわずかに十四歳でした。それはヤマハにとっても、日本の洋楽器業界にとっても画期的なことでした。

『ヤマハの企業文化とCSR』志村和次郎・著(産経新聞社の本)

その後も小市は活躍を遂げ、21歳の若さでアクション部長に就任すると、黒鍵を大量生産する工作機械や、卓上ピアノも考案した。自動ピアノの先鞭をつけたのも小市だった。

昭和2年(1927年)に小市は、ヤマハから独立して「河合楽器研究所」を創立する。いまとなっては、「YAMAHA」と「KAWAI」は世界中のピアニストに愛される一流ブランドである。

だが、もしあの時、樋口が校長先生に寅楠を紹介しなかったら。あるいは、小学校を卒業したばかりの小市を、寅楠に紹介しなかったら。それ以前に、寅楠がたまたま浜松で福島先生と出会って移住を決意していなければ。河合喜三郎が寅楠のオルガン作りを援助していなければ。関口県令が音楽取調所の伊澤を紹介してくれていなければ。国産のピアノは、この国の歴史に登場することはなかったかもしれない。

出会う、が、世界を変えたのだ。

Photo: "Is it plugged in?" by Lawrence (CC BY-NC-ND 2.0)