ビジネスネットワークの思想と哲学

ビジネスにも通ずる出会いの哲学、「縁の論理」とは? ──『邂逅の論理』著者、木岡伸夫が解説

昨年発売された『邂逅の論理』は、世界で初めて〈出会い〉を主題とした哲学書である。これまで、さまざまな観点からビジネスのつながりについて探ってきたBNLは、2018年、この「出会いの哲学」に光をあてることから始めてみたい。

異なる視点をもつ人との〈出会い〉を大切にすべき。

これは、これまでBNLで取材した人に共通する考え方のひとつだと言えるだろう。

だが、異なる視点をもつ人は、あまり近くにはいないもので、思いがけない時や場所で出会うことが多い。このような偶然の出会いを「邂逅」という。

今回取材した関西大学教授、木岡伸夫の著書『邂逅の論理』は、〈出会い〉を主題として扱い、その論理について考えた哲学書だ。その序文には、この本に込めた彼の思いが詰まっている。

本書は「邂逅」を主題とする。「邂逅」とは、辞書によれば、「思いがけない出会い、めぐり合い」とされている。したがって、『邂逅の論理』の目的は、そういう意味をもつ「邂逅とはどういうことか」、「邂逅はいかにして成立するのか」という道筋(論理)を明らかにすることにある。

と、このように書き出したなら、いったいなぜ「邂逅」というものが、それも「論理」の問題になるのか、という疑問が呈されることだろう。無理もない。洋の東西を問わず、これまで世に出された哲学書、思想書の類に、「邂逅」を主題として取り扱った書物は、ほとんど見当たらないからである。だから、なぜ邂逅が問題になるのか──同じことを裏返して言えば、なぜこれまで邂逅が問題にならなかったのか──を明らかにすることが、本書の最初の課題である。

(中略)

私たちが「哲学」と呼んで、世界の見方や人間の生き方を根本的に反省する学問とみなしているものの中に、人生の重大事である〈出会い〉とうテーマが含まれないとすれば、おかしな話である。そう思わないだろうか。

──『邂逅の論理』木岡伸夫(春秋社) 序文

日本には「ご縁」という言葉が生活に浸透している。出会いの証である名刺交換も、深くビジネスカルチャーに根付いている。だからこそ、この国には何か、世界に提示できる「出会いの哲学」があるのではないか。そうした期待を胸に大阪へ。関西大学の木岡研究室を訪ねた。


『邂逅の論理:〈縁〉の結ぶ世界へ』木岡伸夫(著)。2017年7月に春秋社より発売。

西洋には「出会いの哲学」がない

──このあいだ書店で偶然『邂逅の論理』を見かけました。タイトルにある「邂逅」という言葉は正直なところ馴染みはなかったのですが、副題の「<縁>を結ぶ世界へ」の方は意味が通じたので、気になって手に取ったのです。

たしかに副題の方が一般的な言葉でわかりやすいですよね。

──ビジネスにおける出会いの証である名刺を扱うEightのサービスに、何か役立てられるかもしれないと思って、序文を立ち読みしたところ、いきなり衝撃的なことが書いてありまして、「これはもしや凄い本を見つけたかもしれない!」と思ってすぐに購入しました。

ははは、そうですか。序文を書いてよかった。笑

──衝撃を受けたのは、人生の重大事である〈出会い〉というテーマは、これまで哲学の世界ではほとんど論じられてこなかったということです。

でも聞いたことないでしょ? そういうタイトルの本ってないでしょ?

──たしかに言われてみれば思い当たる本はありませんが、私自身は名刺アプリの会社にいますので、日々何かしら〈出会い〉という問題について考えています。だから、哲学者がこれまでこの問題について考えたことがないというのは、にわかに信じられませんでした。

それは狙い通りですね。読者にそういうショックを与えるところから入りたかったので。ただ、それにはちゃんと理由があることを最初の章で書いているつもりです。

まさかビジネスの領域から興味を持ってもらえるとは思っていなかった。このご縁に感謝したいと、快く迎えてくれた。

──そうですね。その理由について、改めて教えていただけますか。

西洋で発展した哲学は、これまで〈出会い〉を問題にする必要がなかったのです。宗主国と植民地、先進国と途上国といった「支配−被支配」の関係において、常に上位であった西洋は、〈対等な出会い〉を経験する機会がほぼなかったからです。

独立な二者が対峙するためには、たがいに対等な他者を認め合うことのできる状況が、成立しなければならない。近代に誕生した地球大の「世界」は、西洋が非西洋地域に進出し、その多くを植民地という形で属領にするなどして、支配下に置くという仕方で拡張された、西洋中心の世界である。そういう自己中心的な世界の中では、〈他者〉との関係に向けた反省は生まれようがない。

──『邂逅の論理』木岡伸夫(春秋社) p.20-21

日本人は明治時代になってから西洋の哲学に触れましたが、学問知識をそのまま有難く頂戴し、模倣し、追従しました。おそらく当時欧州に留学した人に対して、先方は「おお!遥々よう来てくれた!」と、懇切丁寧に哲学を教えてくれたことでしょう。しかし、それでは対等に議論できません。それでも一部の日本の哲学者は、「きっと何か西洋と対峙できる哲学が日本にもあるはずだ」と、150年以上に渡って探り続けてきたわけです。

ただし、これまでに〈出会い〉そのものを中心的な問題として扱った哲学者は西洋にも東洋にもいませんでした。それに気づいてから、私が研究すべきことは決まったのです。

フランスに留学し、地理学者オギュスタン・ベルクのもとで学んでいた時に、木岡は〈出会い〉の問題に注目する。帰国後、自身初の単書となる『風景の論理』を執筆。2作目の『風土の論理』に続いて、2017年に3部作の集大成として『邂逅の論理』を書き上げた。

偶然で対等でなければ〈出会い〉は実らない

──『邂逅の論理』というタイトルですが、なぜ「出会いの論理」とはしなかったのでしょうか。

20年ほど前から私は「邂逅」という言葉に惹かれています。あえてこの難しい言葉にこだわっている理由は、九鬼周造の『偶然性の問題』に影響を受けたからなんです。九鬼は、日本の哲学を打ち出そうと試みた人のひとりで、彼のライフワークだったテーマは「偶然性」です。それを「独立なる二元の邂逅」という言葉で論じています。

九鬼がこの本を執筆した当時の西洋では、〈必然性〉はよく問題になっていましたが、〈偶然性〉はメジャーではありませんでした。「あっても、なくてもいいけど、たまたまある」というのが偶然の意味です。今日のこの出会いだって、あなたがたまたま書店で私の本を見つけなかったら、実現しなかったわけです。偶然そのものではないですか。必然とはとても言えません。偶然の意味を認めないことには〈出会い〉はない。それが「邂逅」という言葉に込められている意味なんです。

──たしかに私がたまたま書店で見つけたからこそ、今日先生にお会いできました。

さらに九鬼は、邂逅とは「独立なる二元」に生じる出会いであると言います。つまり、対話が成立する対等な関係でなければならない、ということです。彼は、ドイツやフランスを訪ねて、ハイデガーやベルクソンなど一流の哲学者と会っています。しかし、欧州には2000年以上の学問の伝統があったため、対等な出会いにはなり得なかったのです。

そこで、何か西洋に対峙できる哲学が日本にないものかと考えて、彼が思いついたのは「日本人には出会いの美学がある」というアイデアです。そして、『〈いき〉の構造』という、男女の出逢いをテーマにした本を書きました。

九鬼は決して対等であるとは限らない男女の関係性に注目します。例えば、江戸時代の遊里の芸者が旦那と付き合う。でも最後に芸者は身を引くわけです。それが日本人ならではの〈いき〉な態度だと九鬼は書いています。留学を通して思い知った「独立なる二元の邂逅」の難しさ。その痛切な体験がもとになって、『〈いき〉の構造』は生まれたのではないかと私は思うのです。

記録によると、九鬼は1921年から7年余、妻を伴ってヨーロッパに留学していた。ドイツではハイデッガーやリッケルト、フランスではベルクソンにも会っており、またフランス語の個人教師として、当時まだ学生だったサルトルを雇っていた。

論理と論理がぶつかった時の論理

──九鬼さんが生きていた時代と比べると、世界の情勢は変化しています。いまなら西洋と東洋の「独立なる二元の邂逅」を実現できるのではないか。『邂逅の論理』は、そのような提言の書であるのでは?

おっしゃる通りです。国と国の関係、文化と文化の関係は、現代の世界で〈出会い〉が問題になる代表的な例でしょう。そのなかで「独立なる二元の邂逅」と言えるような関係がどれほど成り立っているか、という疑問があります。

本の中では書いていませんが、例えば日本とアメリカの関係において、いまの日本はアメリカに追随する立場を取っています。アメリカで良しとされているものをそのまま受け入れている状況は、とても「独立なる二元の邂逅」とは言えません。この本は、決して政治などの応用問題を解こうとして書いた本ではありませんが、何か思考の手がかりになればと願っています。ビジネスのことも一切触れていませんが、このように興味を持っていただけて、大変うれしく思います。

──ビジネスの世界では最近コワーキングスペースで働く人が増えていて、「オープンイノベーション」といって、社内の閉じた環境だけで事業開発を行うのではなく、他社との協業を図る取り組みも増えています。ただ、社風も仕事の進め方も互いに異なる中で、なかなか一筋縄にはいかないことが多いようです。

なるほど。原因はおそらく、それぞれの会社に独自の社風や価値観があって、簡単に相対化できないことでしょう。ではどうすれば、〈出会い〉は成立するのか? それが私の問いなんです。

──興味深い問いですね。いったいどうすればいいのでしょう?

そもそも論理とは「正しい答えは、ひとつしかない」というものなんで、「論理と論理がぶつかった時にどうしたらいいか?」という論理はないんです!

──それが「邂逅の論理」というものになるわけですか?

そうです。論理と論理がぶつかった時の論理として、本の中では、東洋に伝わる「形の論理」と、西洋から広まった「アナロギアの論理」を取り上げています。さらに、その双方の論理を包括する、「縁の論理」というものを検討しているのです。

インタビュー中盤、熱が入り、キーワードを次々と黒板に記していく。

論理1. 日本発の「形の論理」

──ではあらためて「形の論理」から、簡単に解説をお願いできますでしょうか。

「形の論理」は、日本発の論理です。日本語には〈型〉と〈形〉という言葉がありますが、お互いには切り離せない存在なんです。例えば、柔道には〈型〉がありますよね。それは究極のモデルみたいなものですが、〈型〉を参考にして一人ひとりの柔道家の中に生まれてくるものが〈形〉です。そして、数多くの柔道家の〈形〉の中から、特に素晴らしいお手本のようなものが〈型〉に昇格していきます。つまり、〈型〉から〈形〉が生まれ、〈形〉から〈型〉が生まれるのです。

──これまで多くの日本の会社では終身雇用が主流でしたが、最近は転職する人が増えています。ただ、なるべくいまの会社でやりたいことを実現できるようにすべきだ、という意見もあるようです。

それができない会社は、〈型〉と〈形〉の媒介がうまくできていないとも言えるでしょう。会社に入ったら、個々の社員はその会社の規範やルール、つまり〈型〉に従わなければなりません。でも、次第に自己主張をしたくなり、〈型〉を崩したり「型破り」をしたりする。本来、〈形〉にはそういった自由があるべきです。

──「型破り」を実現できれば、既存のやり方にとらわれない新たな試みができ、イノベーションにつながりそうですね。

型破りを許容できる会社は、まさに時代を超えて発展できる会社の特徴ではないかと思います。私の言い方では、〈形〉の働きかけによって〈型〉が作り変えられるいい例です。この「形の論理」が成り立っていない会社では、社員は会社のルールに則って仕事をするしかありません。もっとこうしたらいいとか、個人の意思が出てきても、それを十分に活かすことができません。

〈形〉が〈型〉を変えていく、〈型〉が〈形〉をコントロールする。このように両者の〈あいだ〉を開くことが重要なんです。上から言われたことしかできない会社は、ずっと〈あいだ〉は閉じたままです。

木岡が師事するオギュスタン・ベルクは、日本に来て和辻哲郎の思想に影響を受け、それをフランスに持ち帰って自分の学問をつくった。ベルクが日本の思想に注目したように、今度は木岡がフランスでベルクの思想を学び、日本に持ち帰って自分の学問をつくろうと決意したという。

論理2. 西洋で生まれた「アナロギアの論理」

──次に挙げられていた「アナロギアの論理」についても解説をお願いします。

これは、〈神〉と〈人間〉が分断された西洋の世界観において、どうすれば両者の〈あいだ〉を開き、〈人間〉は〈神〉に近づけるか、を説明するために生まれた論理です。

人間は神様に近づきたい、神様を理解したい、と考えますが、人間と神は断絶しているので、決して神になることはできません。ただ、みんなが神様を信じている、という信仰の〈形〉ならあるわけです。その〈形〉を各々突き合わせて比較すると、自ずと神の存在が浮かび上がってきます。「ああ。やっぱり神っておるんやなあ」と思えるわけです。

「アナロギア」はラテン語で、ギリシャ語では「アナロゴス」、英語では「アナロジー」と言います。日本語訳では「類推」です。要するに、何かを何かと比較する時に使う言葉ですから、これを「アナロギアの論理」というわけです。

──『邂逅の論理』では、「a:b ≒ c:d」のように、ニアリーイコールの式で説明していました。

アナロジーの語源は数学の「比例」です。「1:2 = 3:6」は厳密なイコールの関係ですが、アナロジーの場合はニアリーイコールで表します。例えば、「魚:ヒレ ≒ 鳥:ツバサ」といった関係です。数的比例ではないので決してイコールではありません。でも関係の仕方が似ているから、互いに異なっていても〈あいだ〉を開くことができるんです。

ただし、「a:b ≒ c:d」だけだと関係が閉じてしまうので、「a:b ≒ c:d ≒ e:f」として開きます。そうすると、どんどんアナロジーが広がっていき、原理上は無数の他者へと比較は広がっていきます。つまり、AさんとBさんが仲よく付き合うだけでは駄目だということです。AさんとBさんは、Cさんとも出会う。そのCさんを媒介にして、Dさんとの出会いも広がる。そういうふうな可能性を考えてほしいわけです。

「良いご縁に恵まれました」とか、「お陰さまで〇〇」といった言葉は日本人に浸透しきっている。でも多くの人は、その言葉の意味を反省できていない。この記事をきっかけに一度、考えてみてほしいと語る。

論理3. ふたつの論理を結ぶ「縁の論理」

──なぜ、「形の論理」と「アナロギアの論理」は、論理と論理がぶつかった時に活かせる論理だと言えるのでしょうか。

どちらも出会った両者の〈あいだ〉を開くことができるからです。東洋と西洋では、文化や神様は異なりますが、「形の論理」と「アナロギアの論理」は、〈あいだ〉を開く思考パターンとしては似ているところがあります。この2つの論理を同類として扱えば、理解し合えるのではないかと考えたわけです。

──その2つの論理を結ぶのが「縁の論理」というわけですね?

「形の論理」と「アナロギアの論理」は、出処としては東洋と西洋に分かれていますが、これらは「縁の論理」というものにまとめられるのではないかと思うのです。

例えば、キリスト教徒と仏教徒の2人が出会って仲良くなると「ご縁がありましたね」と言えるでしょう。この言葉を使える人は、相手がどんな神様を信じていようとも差別はしないんです。「自分はキリスト教徒だから仏教徒とは付き合わない」というのは、おかしな話でしょう。そこを分け隔てなく付き合える人は、やっぱり「ご縁」という言葉を使える人だと思うのです。

「ご縁によって」成り立つ人と人の関係は、それ以前に当事者同士に知られることがなかったその関係が、〈縁〉の成立と同時に確認され、信じられる、といった偶然的かつ必然的な関係である。それが偶然的であるのは、甲にとって乙との出会いが、まったく予想外の仕方で不意打ち的に起こったために、「無いことができる」と考えられるからである。またそれが必然的であるのは、いったん生じた時点では、その出会いがまさしく避けがたい仕方で起こった、という確信を生むからである。

〈邂逅〉の名に値するすべての出会いには、偶然的=必然的の両義性、つまり「運命」の意味が伴う。それが生じた時点では、その廻り合わせを運命として引き受ける以外にない、という実感が、「ありがたいご縁で」といった日常用いられる言い回しに込められている。これも人のよく知るところであろう。「ご縁」を信じる人々の「ありがたい」思いは、それを実現することに与った神仏への感謝を含みつつ、それによって引き合わされた他者に対する〈責任〉の意識を生み出さずにはおかない。

──『邂逅の論理』木岡伸夫(春秋社) P.274-275

──ただ、「ご縁」は東洋の言葉ですよね?

もちろん因縁をつける人はいますよ。「ご縁」は仏教の言葉で西洋にはないものですから。翻訳もできません。relationとは違います。ただ、それはもうしょうがないことです。たまたま〈出会い〉について深く考えさせてくれるのが、仏教起源の「ご縁」という言葉ですから。精々それを活かして、「ご縁を結ぶ」という考え方を、東洋でも西洋でも追求していけばいい。その主張の仕方は別に「アナロギアの論理」でも「形の論理」でもいいんです。肝心なのは、それらの論理の中心にある「縁」の思想をしっかり活かす、ということです。