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BUSINESS INSIGHTS

モノで人の心は動く──ソニー新規事業創出部・藤田修二が語る、デジタル以後の社内起業

視覚と聴覚に訴えかけて人の心を動かすエンターテイメントは、デジタル・テクノロジーによって変わった。では「嗅覚」はどうだろうか? 化学と香りの研究をベースに、パーソナルアロマディフューザーの製品化に成功したソニーの開発者、藤田修二が見出したのは、社内外のビジネスネットワークを味方につける「モノの力」だった。

Business Network Labのインタビューシリーズ「ビジネスネットワークのものさし」は、こんな問いを掲げてスタートした。

自分のビジネスネットワークを効果的に活用している人は、

「名刺の枚数」という“ものさし”だけで、

引き出しに眠る名刺の束を数えて満足してはいないはずだ。

彼らはいったいどんな“ものさし”を持っているのだろうか。

今回登場してもらうのは、ソニー新規事業創出部の統括課長、藤田修二。

ソニーは、これまで世界最先端のデジタル・テクノロジーを用いて、時代を先取りするエンターテイメントを世に提供し、多くの人の心を動かしてきた。

しかし、もはや人の心を動かす新製品は最近ぱっと思いつくものがないという印象を抱く人も現れ始めた。人をわくわくさせるものを生み出すハードルの高さはソニーの開発者としていちばん実感していた、と藤田は話す。そこで彼は考えた。ソニーのお家芸は、エンターテイメントで人の心を動かすこと。そこにもう一度立ち戻り、聴覚と視覚の次は、「嗅覚」に狙いを定めた。技術はデジタルではなく、化学で攻める。

ソニーの新規事業創出プログラム「Seed Acceleration Program(SAP)」を通じて、ハーバード大で磨き上げた先端化学のスキルと、自社で開発した3Dプリンター、そして、社内外のビジネスネットワークを上手く活用して、2016年10月にパーソナルアロマディフューザー「AROMASTIC(アロマスティック)」の製品化を実現した。

ウォークマンがかつて音楽を持ち運び可能なものとし、人々のライフスタイルを変えたように、AROMASTICは香りを持ち運ぶことで新しいライフスタイルを提案する。そのインパクトのあるコンセプトに注目が集まり、発売時、多くのメディアが取り上げている。ソニーのような大企業で、ひとりの開発者の名前がメディアに大きく取り上げられることは稀である。

そんな藤田のビジネスネットワークの"ものさし"は、モノを介することで生まれる「人の心の動き」だ。AROMASTICを世に送り出す過程において、藤田はたびたび、モノが人の心を動かすことの威力を実感したという。それは、ソニーが創業以来追求してきた「ソニーらしさ」そのものでもある。

AROMASTIC開発のために香りの知識を習得した藤田は、アロマテラピー検定1級を取得している。

──AROMASTICのアイデアは、どこから生まれたのでしょう?

SAPにAROMASTICのアイデアを提案するより前に、業務外でVRのコンテンツに香りを組み込む研究をしていました。研究を始めたきっかけは2つあります。ひとつは社内のヘッドマウントディスプレイ(HMD)開発者との会話、もうひとつは業務として携わっていた別の開発を通じて得られた経験です。

HMD以前にも3Dテレビというものがありました。左右の目に違う画像を見せることで立体的に見せるという原理はどちらも一緒ですが、3Dテレビでは2つの画像が微妙に重なってしまうのに対して、HMDであれば完全に別にすることができます。それが高い没入感やワクワク感につながっているという話をVRの開発者から聞き、人の心はちょっとした違いで大きく動くものなのだということを知りました。

では、その「ちょっとした違い」とは何なのか。当時わたしはジュースを注ぐことで発電する電池という未来を感じさせる電池を開発していました。その仕組みを言葉で説明することももちろんできるのですが、展示会などで実演することで得られる反響は、単に説明したのとは比べ物にならないくらい大きなものでした。

ここには、「実演してみせること」と「化学反応」という2つの意味でモノが介在しています。デジタルなテクノロジーでさまざまなことができる時代になったいまでも、リアルなモノが介在することが人の心を動かす可能性がある。そうした発想からスタートしてたどり着いたのが、香りを扱うことでした。なぜなら、嗅覚というのは視覚などの他の刺激と違い、デジタルに変換されない物質的なシグナルだからです。

AROMASTICのプロモーションビデオ。アロマは女性向けだと思われがちだが、ビジネスの場面での利用も想定して、男性のモデルも起用されている。

──当初VRの研究として始まったものが、なぜAROMASTICの「香りを持ち運ぶ」形になったのですか?

わたし自身が留学することになり、仲間との業務外の研究が続けられなくなったという事情もありましたが、それ以上にVRのコンテンツを作るのには非常にコストがかかるため、こだわりたかった「形にしてちゃんと届ける」ことのハードルが高いと感じたからです。

留学を終えて帰国すると、社内でSAPのプログラムが立ち上がっていました。応募するにあたって改めて考え直したところ、香りはそれだけで人々の生活に浸透しており、映像や音楽と組み合わせるまでもなく、ひとつのコンテンツとして成立していることに気付くことができました。とはいえ、最終的に香りだけで勝負できると確信を持てたのは、プロトタイプを作ってみてからです。

同僚の女性に試してもらうと、驚きと喜びの反応が返ってきました。さらによくよく聞いてみると、従来の携帯用アロマ製品に対しては、使うのに手間がかかったり、持ち運んでいる時に壊れやすかったりと、色々と不満を抱えていることも分かりました。であれば、香りをもっと気軽に自由に使うというコンセプトを喜んでくれる人は結構いそうだと思うことができました。

──藤田さんは最終製品として「形にする」ということにすごくこだわりをお持ちのようです。ある意味、研究者らしくないとも感じるのですが。

そうかもしれません。研究は、続けようと思えばいつまででも続けられてしまう性質のものです。ただ、企業の研究所における基礎研究は、製品を作る部門からすれば、世の中に多くある選択肢のひとつでしかないという側面もあります。そう考えると、研究者とはいえ形にして世の中に出すことにこだわる仕事の仕方もあるのではないか、というのがわたしの考えです。

「AROMASTIC」の製品名は「STICK」のKではなく、Cで終わる形にすることで、形容詞的な何にでもかかる語感を表現している。「どんなシチュエーションでもどんな人でも、きっと役立てることがあるのではないか」という、藤田の思いが込められている。

──そう考えるようになったきっかけは?

きっかけは、大学院に進む際に指導教官から贈られた利根川進先生の言葉です。利根川先生は「重要なテーマでもそうでないテーマでも研究をやるからには一生を費やすほどの大変な時間がかかる。どうせやるなら重要なことをやりなさい」ということを言っておられます。この言葉を受けてわたしは、どうせやるのであれば、人の生活を変えるようなインパクトのあることをやるべきだ、と考えるようになりました。

このことは、わたしがソニーに入社した動機であるとも言えます。

──というと?

ソニーは一貫して一般消費者向けの製品で勝負し続けている会社です。多様な嗜好が存在する一般消費者向けの領域は難しい分野ですが、そこに対して「モノを通じて新しいライフスタイルを提案する」という挑戦をし続けているところがカッコいいと感じました。

入社してしばらくはデバイスの研究開発に携わることになったので、そうした初心を忘れかけたこともありましたが、留学先のアメリカでそれを思い出させてくれる出来事がありました。ソニーの名前はアメリカでもよく知られていますから、興味を持って最近ソニーは何を出しているのか、と聞かれます。そこで「スマートフォンのイメージセンサ」と答えると、あまり芳しい反応は返ってきませんでした。

イメージセンサの技術レベルがいかに高くても、ソニーのブランドはやはり、最終製品で一般消費者を相手に勝負し続けたことで確立されているのだと改めて認識させられることになりました。翻って、わたしたちがソニーでやるべきことは、そうした部分でお客様の期待に応えることではないか。そういう思いを強くして帰国したことが、SAPに応募することにもつながったと思います。

──研究だけをやっていた時と比べて、必要な仕事の量も幅も増えたのではないですか?

それはおっしゃる通りです。商品を出して終わりではないので、それを多くの人にどう認知してもらうかというマーケティング的なことも、1年後にどう使われていてほしいかというブランディング的なことも毎日考えています。考えているだけでなく、商談に行って掛け率の話をしたり、特許申請の具体的なところまで踏み込んだりと、かなり細かい仕事もやっています。

どれも研究所時代にはありえなかったことです。煩わしくないんですか?とよく聞かれますが、自分の中では不思議と違和感がないんです。おそらく、モノを形にして届けるという目的から考えると、本来はすべてのプロセスがつながっているものだと考えているからだと思います。もちろん、大企業において実際にそのすべてを経験できるというのは非常に稀なケースであり、恵まれている話だとも思いますが。

──形にすることが人の心を動かすということを、AROMASTICのプロジェクトを通じて藤田さん自身が感じる場面がありましたか?

例えば、今回香り成分を提供してくれているのは英国の伝統的なオーガニックコスメ会社であるニールズヤードレメディーズですが、元々は何のつながりもなく、お客様サポートに1通のメールを送るところから始まりました。運良く英国本国の代表や日本法人の社長とお会いすることができ、ほぼ即決で協力してもらえることになったんですが、あとから聞いたところによると、こちらの熱意や本気度が伝わったことが決め手になったようです。

プレゼンには基板ムキ出しのプロトタイプを持っていきました。そして、最初にそれを作った時にわたし自身が感じた可能性をそのまま伝えました。いまにして思えば、モノが介在しているからこそ伝わった熱というものがあったのかもしれません。

インタビューは、ソニー本社の1FにあるSAPのスペース「クリエイティブラウンジ」で行った。ブラックボードや3Dプリンターに囲まれて、新しいものづくりのアイデアを刺激する空間が広がっている。

──実際にAROMASTICを世の中に出した後の反応という意味ではいかがですか?

人のつながりが急拡大し、名刺の数も増えました。自分はもともと社交的なタイプではないですが、モノを出すと向こうからドアをノックしてもらうことができます。このことは、もちろんそこからビジネスが広がるという意味でもあるのですが、一方ではお客様と直接つながれることの価値も感じています。

先日は抗がん剤治療を続けているお客様とお話しする機会があり、それまでは治療が苦痛でしかなかったのだけれど、AROMASTICを使うことで前向きになれるようになったと言っていただきました。モノがお客様の心を動かしたという話でもありますし、そういう話を聞くとこちらとしても勇気がもらえます。こうした出会いも、モノを介していることの威力なのではないかと感じています。

──AROMASTICに限らず、最近になってソニーからまた新しいモノが次々生まれている印象を受けます。中にいて感じる変化や、背景として考えられることはありますか?

やはりSAPというプログラムの存在が大きいと思います。もちろんこれまでにもさまざまなかたちで新規事業創出を推し進めるための取り組みはありましたが、いずれも「形にする」というところまでたどり着くのが難しかったのではと想像しています。

SAPがそれらと最も違うのは、既存の事業領域にとらわれないビジネスアイディアの事業化を目指していることと、オーディションを通ると、提案者がオーナーとなってプロジェクトを進める“実際に組織図上に存在する”組織を持てるところです。オーナーシップがないと、研究所から発案したとしても結局はどこかの事業部に引き取ってもらわなければならないし、事業部側もメーンの事業をやりながらのことなので、どうしても本腰を入れることが難しい。その点でSAPという制度が果たしている部分は大きいと感じます。

──そういった仕組みが機能するには一方で一人ひとりのマインドセットやカルチャーも大切になってきそうですが?

おっしゃる通りだと思います。しかしその点で言えば、新しいモノを作ることをよしとするDNAのようなものがソニーにはあります。先ほどわたし自身がソニーに入社した動機をお話ししましたが、新しいモノを生み出し、人々のライフスタイルを変えるという部分に惹かれているのは、ソニーで働く人に共通したところであるような気がします。

SAPに応募する際にプロトタイプを制作していた時も、本来の業務は別にあったわけですから、業務外のことであっても新しいものを生み出すことに理解のある上司の存在なしには、成り立たなかったと思います。

「カスタマーを満足させるためのモノをこしらえようか、というのは人間の心の問題だと思う」。ソニーの創業者のひとり、井深大が残したこの言葉が、「香りを通して人の心にアプローチしたい」と考える、藤田のものづくりの思想に生きている。

──そうしたDNAの他にも、モノを作る上でソニーであることの強みを感じることがありますか?

ギフトショーなどでベンチャーの人と交流すると、やはりものづくりの部分で苦労しているのだと感じます。その点、大企業には製造メーカーとしてのパワー、ノウハウ、そして人がいることが大きいと思います。

AROMASTICのプロジェクトでは、3Dプリントによる量産装置をゼロから作るという、ソニーとしても前代未聞のやり方を試みています。当初は工場の人たちからも現実的ではないと反対されたのですが、相当にハードなスケジュールだったにも関わらず、最終的にはなんとか形にしてくれました。つくづく、ソニーにはものづくりのプロフェッショナルが揃っていると感じます。

わたし自身、仲間からはよく、みんなができないと思って逡巡している間に勝手にスタスタ歩き出してしまうタイプのリーダーだと評されます。そのことが結果的にチームの推進力になっているというのですが、わたしが「できないかもしれない」と思うまでもなく歩き始めてしまう背景には、そうしたものづくりのプロに対する信頼があるような気がします。

──そうしたものづくりのプロフェッショナルに囲まれて、香りで人々のライフスタイルを変える取り組みは今後、どう進んでいきそうですか?

ソニーはエンターテインメントの会社と言われますが、わたしはエンタメを「楽しい」だけでなく、喜怒哀楽の情動すべてを指す言葉として捉えています。つまり、テクノロジーを使って喜怒哀楽すべての面で人の心を動かし、新しいライフスタイルを提案するというのがソニーらしいと思っています。

その点で、香りには大きな可能性があると思っています。なぜなら、嗅覚は「情動脳」と呼ばれる大脳辺縁系につながっていて、大脳皮質の処理なしに本能的に喜怒哀楽に直接作用する唯一の感覚器官だからです。この数十年で世の中は効率化が進みました。それ自体は正しいことだと思っていますが、一方で例えば「ストレス社会」という言葉は、まったく手付かずの状態で40年前と変わらず残っています。

ちょっとしたことでそうしたところを改善できたら、それが大きな幸せにつながるかもしれません。香りとテクノロジーにより、そういうことに真面目にアプローチしていきたいと考えています。